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「三業」の版間の差分

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[[WDM:説一切有部|説一切有部]]の解釈では、業(行為)は、心の中で分別思惟した思業(しごう)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる。これこれをなそうと意思したのが思業であり、身業と口業(語業)は、意思である思業から生じるので[[WDM:しいごう|思已業]]といわれる。思業は'''意業'''であり、思已業は動機が'''身業'''と'''口業'''としてあらわれたものだからである。思(意業)と思已業(身業・口業)という考え方は、人間のなす行為はすべて思 (心所法の思)である心的行為から生ずるとみる説であり、一切を識に帰する唯識説に展開していく。
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[[JWP:説一切有部|説一切有部]]の解釈では、業(行為)は、心の中で分別思惟した思業(しごう)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる。これこれをなそうと意思したのが思業であり、身業と口業(語業)は、意思である思業から生じるので[[WDM:しいごう|思已業]]といわれる。思業は'''意業'''であり、思已業は動機が'''身業'''と'''口業'''としてあらわれたものだからである。思(意業)と思已業(身業・口業)という考え方は、人間のなす行為はすべて思 (心所法の思)である心的行為から生ずるとみる説であり、一切を識に帰する唯識説に展開していく。
 
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2023年10月19日 (木) 14:25時点における最新版

さんごう

 身・口・意のはたらき。
 身に行う身業、口に言う口業(語業ともいう)、心に思う意業(思業ともいう)を三業という。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

説一切有部の解釈では、業(行為)は、心の中で分別思惟した思業(しごう)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる。これこれをなそうと意思したのが思業であり、身業と口業(語業)は、意思である思業から生じるので思已業といわれる。思業は意業であり、思已業は動機が身業口業としてあらわれたものだからである。思(意業)と思已業(身業・口業)という考え方は、人間のなす行為はすべて思 (心所法の思)である心的行為から生ずるとみる説であり、一切を識に帰する唯識説に展開していく。

自性唯心

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:三業

さんごう/三業

三種類の行為の意で、身業口業くごう意業のこと。口業は語業とも、また意業は思業ともいう。有部では、身体の形が身業であり、語の音声が語業であり、意思が意業であるとされる。この三業の関係は、意思である意業から身業と語業の二つの業が生じるのであり、身業・語業は思已業といわれる。さらに身業と語業には、外に表れる表業と強い善悪の業によって生じる無表業とがある。この三業に関連して善導は『往生礼讃』に「一には至誠心。謂う所の身業に彼の仏を礼拝し、口業に彼の仏を讃歎し称揚し、意業に彼の仏を専念観察す。凡そ三業を起すに、必ずすべからく真実なるべし。故に至誠心と名づく」(浄全四・三五四下)と述べて、至誠心とは三業が真実であることと説く。また、三業念仏との関連で見るとき『観経疏定善義に「衆生、行をおこして、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏また衆生憶念したまう。彼此ひし三業相い捨離せず、故に親縁と名づく」(聖典二・二七二~三/浄全二・四九上)として、念仏を通じて阿弥陀仏行者三業が相捨離しないという。これは三縁の中の親縁である。これを受けて法然は、『選択集』二において五番相対の第一に親疎対として親縁の義を示す。西山派では離三業念仏を説く。


【参照項目】➡五番相対離三業念仏


【執筆者:齊藤舜健】