操作

「真実」の版間の差分

提供: WikiArc

1行目: 1行目:
 
しんじつ
 
しんじつ
  
:Ⅰ.<kana>教法(きょうぼう)</kana>についていう場合。<kana>邪偽(じゃぎ)</kana>(外教)・<kana>権仮(ごんけ)</kana>(聖道、第十九・二十願の法門)に対して[[第十八願]]の法門を真実という。
+
:Ⅰ.<kana>教法(きょうぼう)</kana>についていう場合。<kana>[[邪偽]](じゃぎ)</kana>(外教)・<kana>[[権仮]](ごんけ)</kana>([[聖道]]、[[第十九願|第十九]]・[[第二十願|二十願]]の法門)に対して[[第十八願]]の法門を真実という。
  
 
:Ⅱ.<kana>虚妄(こもう)</kana>である自己と社会の現実に対して如来の願心を真実という。
 
:Ⅱ.<kana>虚妄(こもう)</kana>である自己と社会の現実に対して如来の願心を真実という。
13行目: 13行目:
 
::「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 ([[一多#P--678|一多 P.678]])
 
::「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 ([[一多#P--678|一多 P.678]])
 
:とある。 →[[真実功徳相]]。
 
:とある。 →[[真実功徳相]]。
:Ⅱ <kana>[[邪偽]](じゃぎ)</kana>(外教)・<kana>[[権仮]](ごんけ)</kana>(聖道、第十九・二十願の法門)に対して[[第十八願]]の法門を真実という。『浄土和讃』には、
+
:Ⅱ <kana>[[邪偽]](じゃぎ)</kana>(外教)・<kana>[[権仮]](ごんけ)</kana>([[聖道]]、[[第十九願|第十九]]・[[第二十願|二十願]]の法門)に対して[[第十八願]]の法門を真実という。『浄土和讃』には、
 
::如来[[興世]]の本意には
 
::如来[[興世]]の本意には
 
:: 本願真実ひらきてぞ
 
:: 本願真実ひらきてぞ
23行目: 23行目:
 
{{Inyou|
 
{{Inyou|
 
「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。
 
「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。
:一には[[有漏]]の心より生じて[[法性]]に順ぜず。いはゆる[[凡夫]][[人天]]の諸善、人天の果報<ref>仏ではなく、人や天人に生まれる果報であること。</ref>、もしは因もしは果、みなこれ[[顛倒]]、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
+
:一には[[有漏]]の心より生じて[[法性]]に順ぜず。いはゆる[[凡夫]][[人天]]の諸善、人天の果報<ref>仏ではなく、人や天人に生まれる果報であること。これは[[生死]]を超える真実の功徳ではない。</ref>、もしは因もしは果、みなこれ[[顛倒]]、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
  
 
:二には菩薩の智慧清浄の業より起りて[[仏事]]を[[荘厳]]す。[[法性]]によりて清浄の相に入る。この法[[顛倒]]せず、虚偽ならず。名づけて[[真実功徳相|真実功徳]]となす。いかんが[[顛倒]]せざる。[[法性]]によりて[[二諦]]に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して[[畢竟]] 浄に入らしむるがゆゑなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no7|論註 P.55]])
 
:二には菩薩の智慧清浄の業より起りて[[仏事]]を[[荘厳]]す。[[法性]]によりて清浄の相に入る。この法[[顛倒]]せず、虚偽ならず。名づけて[[真実功徳相|真実功徳]]となす。いかんが[[顛倒]]せざる。[[法性]]によりて[[二諦]]に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して[[畢竟]] 浄に入らしむるがゆゑなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no7|論註 P.55]])
 
}}
 
}}
 +
 
:→[[真実功徳相]]
 
:→[[真実功徳相]]
 +
:→[[二諦]]
 +
----
 +
<references />
  
[[Category:追記]]
+
[[Category:追記]]<p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2023年6月21日 (水) 00:43時点における版

しんじつ

Ⅰ.教法(きょうぼう)についていう場合。邪偽(じゃぎ)(外教)・権仮(ごんけ)聖道第十九二十願の法門)に対して第十八願の法門を真実という。
Ⅱ.虚妄(こもう)である自己と社会の現実に対して如来の願心を真実という。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

真実

まことの意。

Ⅰ 真如法性そのものをいう。また、真如法性にかなった如来願心やはたらきをいう。『一多文意』には、
「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 (一多 P.678)
とある。 →真実功徳相
Ⅱ 邪偽(じゃぎ)(外教)・権仮(ごんけ)聖道第十九二十願の法門)に対して第十八願の法門を真実という。『浄土和讃』には、
如来興世の本意には
 本願真実ひらきてぞ
 難値難見とときたまひ
 猶霊瑞華としめしける (浄土 P.566)

とある。(浄土真宗辞典)

御開山は、自らに真実が無いということを真実とされた。それは真実の意味を『論註』の真実功徳釈に拠(よ)られたからであった。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。

一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報[1]、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟 浄に入らしむるがゆゑなり。 (論註 P.55)
真実功徳相
二諦

  1. 仏ではなく、人や天人に生まれる果報であること。これは生死を超える真実の功徳ではない。