「廃悪修善」の版間の差分
提供: WikiArc
9行目: | 9行目: | ||
しかるに[[常没の凡愚]]、[[定心]]修しがたし、[[息慮凝心]]のゆゑに。[[散心]]行じがたし、[[廃悪修善]]のゆゑに。ここをもつて[[立相住心]]なほ成じがたきがゆゑに、 | しかるに[[常没の凡愚]]、[[定心]]修しがたし、[[息慮凝心]]のゆゑに。[[散心]]行じがたし、[[廃悪修善]]のゆゑに。ここをもつて[[立相住心]]なほ成じがたきがゆゑに、 | ||
:「たとひ千年の寿を尽すとも、[[法眼]]いまだかつて開けず」([[観経疏 定善義 (七祖)#P--427|定善義 四二七]]) | :「たとひ千年の寿を尽すとも、[[法眼]]いまだかつて開けず」([[観経疏 定善義 (七祖)#P--427|定善義 四二七]]) | ||
− | といへり。いかにいはんや[[無相離念]]まことに獲がたし。([[化巻本# | + | といへり。いかにいはんや[[無相離念]]まことに獲がたし。([[化巻本#no34|化巻 P.393]]) |
}} | }} | ||
とされ、[[息慮凝心]]([[定善]])や廃悪修善([[散善]])の実践の困難なことの立証に「定善義」を引かれておられた。<br /> | とされ、[[息慮凝心]]([[定善]])や廃悪修善([[散善]])の実践の困難なことの立証に「定善義」を引かれておられた。<br /> |
2023年5月11日 (木) 23:39時点における版
はいあくしゅぜん
悪を廃して善を修すること。(化巻 P.393)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山は「化巻」で、息慮凝心と廃悪修善を自釈され、
とされ、息慮凝心(定善)や廃悪修善(散善)の実践の困難なことの立証に「定善義」を引かれておられた。
この、息慮凝心と廃悪修善は釈尊の「要門」の教えであり、それに対して一切善悪の凡夫が往生する弘願門を顕されたのが阿弥陀如来であった。これを善導大師「玄義分」で以下のように示しておられた。
しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。(玄義分 p.300)
御開山はこの善導大師の文を享けられて、
とされたのであった。
なお、法然聖人は、
廃悪修善は、諸仏の通戒なり。しかれども、当世のわれらは、みなそれにはそむきたる身ともなれば、ただひとへに別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智、持戒・破戒をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候なり。御
と、されておられた。
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「七仏通戒偈」の項目
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「二尊二教」の項目
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「止悪修善」の項目
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「七仏通戒偈」の項目