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「約仏、約生」の版間の差分

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約仏とは、仏の救済を仏の側から顕す意で、仏の教法を仏の本願力の[[済度]]のはたらき(用)としてあらわすこと。約本(やくほん)、約法(やくほう)と同じ。◇本願を信じさせ、念仏を称えさせて、迎えとり、仏の悟りを得させる、のように仏を主体とした仏の側からの表現をいう。 →[[他力]]<br />
 
約仏とは、仏の救済を仏の側から顕す意で、仏の教法を仏の本願力の[[済度]]のはたらき(用)としてあらわすこと。約本(やくほん)、約法(やくほう)と同じ。◇本願を信じさせ、念仏を称えさせて、迎えとり、仏の悟りを得させる、のように仏を主体とした仏の側からの表現をいう。 →[[他力]]<br />
 
;約生
 
;約生
約生とは、衆生の側から法を受け容れる根機について考察するの意。仏の救済を衆生の側から表現すること。約末(やくまつ)、約機(やくき)に同じ。◇本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成る、というような衆生の側からの法に対する表現をいう。
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約生とは、衆生の側から法を受け容れる根機について考察するの意。仏の救済を衆生の側から表現すること。約末(やくまつ)、約機(やくき)に同じ。◇本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成る、というような衆生の側からの法に対する態度表現をいう。
  
『教行証文類』は、仏の側から仏の救済をあらわしている約仏の書なので、自己を主体として読もうとすると途端に解らなくなる。この意味において、『教行証文類』は単なる教理を示す教科書ではなく、御開山の仏祖に対する領解を述べた書であるといえる。『教行証文類』は我が読んで理解する書ではなく、その中に読み込まれてある我を発見する書であるともいわれる所以であった。
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『教行証文類』は、仏の側から仏の救済をあらわしている[[約仏]]の書なので、自己を主体として読もうとすると途端に解らなくなる。この意味において、『教行証文類』は単なる教理を示す教科書ではなく、御開山の仏祖に対する領解を仏祖の側から述べた書であるといえる。『教行証文類』は我が読んで理解する書ではなく、その中に読み込まれてある我を発見する書であるともいわれる所以であった。
 
→[[文類]]
 
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2023年2月20日 (月) 15:49時点における版

約仏(やくぶつ)、約生(やくしょう)

約とは、糸で縛ってまとめる原意から要約などの意をあらわす。
この約の要約の意から「について」、「において」、「として」など対象の語を限定する意味で使われるようになった。

約仏

約仏とは、仏の救済を仏の側から顕す意で、仏の教法を仏の本願力の済度のはたらき(用)としてあらわすこと。約本(やくほん)、約法(やくほう)と同じ。◇本願を信じさせ、念仏を称えさせて、迎えとり、仏の悟りを得させる、のように仏を主体とした仏の側からの表現をいう。 →他力

約生

約生とは、衆生の側から法を受け容れる根機について考察するの意。仏の救済を衆生の側から表現すること。約末(やくまつ)、約機(やくき)に同じ。◇本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成る、というような衆生の側からの法に対する態度表現をいう。

『教行証文類』は、仏の側から仏の救済をあらわしている約仏の書なので、自己を主体として読もうとすると途端に解らなくなる。この意味において、『教行証文類』は単なる教理を示す教科書ではなく、御開山の仏祖に対する領解を仏祖の側から述べた書であるといえる。『教行証文類』は我が読んで理解する書ではなく、その中に読み込まれてある我を発見する書であるともいわれる所以であった。 →文類