「和光同塵」の版間の差分
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仏教ではこの語を転用して、仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を救うために、光輝くような本来の姿をかくし、さまざまな姿を示して、<kana>煩悩(ぼんのう)</kana>の衆生に応同していくことをいう。『<kana>摩訶止観(ま か しかん)</kana>』[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1911_.46.0080a16.html (六・下)] にある「'''和光同塵は<kana>結縁(けちえん)</kana>の始め、八相<kana>成道(じょうどう)</kana>はもつてその終わりを論ず'''」という文は、この語の用例として有名である。わが国においては、仏本神迹の<kana>本地垂迹(ほんじすいしゃく)</kana>説に応用し、仏・菩薩がわが国の民衆に仏縁を結ぶために、さまざまな<kana>神祇(じんぎ)</kana>となってあらわれているのであるから、諸神の本意は衆生を仏道に引き入れるためであると説くのに用いることが多かった。(巻末 註) | 仏教ではこの語を転用して、仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を救うために、光輝くような本来の姿をかくし、さまざまな姿を示して、<kana>煩悩(ぼんのう)</kana>の衆生に応同していくことをいう。『<kana>摩訶止観(ま か しかん)</kana>』[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1911_.46.0080a16.html (六・下)] にある「'''和光同塵は<kana>結縁(けちえん)</kana>の始め、八相<kana>成道(じょうどう)</kana>はもつてその終わりを論ず'''」という文は、この語の用例として有名である。わが国においては、仏本神迹の<kana>本地垂迹(ほんじすいしゃく)</kana>説に応用し、仏・菩薩がわが国の民衆に仏縁を結ぶために、さまざまな<kana>神祇(じんぎ)</kana>となってあらわれているのであるから、諸神の本意は衆生を仏道に引き入れるためであると説くのに用いることが多かった。(巻末 註) | ||
− | 仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を済度のためにその威光を和らげて神となり、この世界の煩悩の塵に応同して衆に縁を結ぶこと。『止観』のことばによる。 ([[持名鈔#P--1010|持名鈔 P.1010]],[[御文三#P-- | + | 仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を済度のためにその威光を和らげて神となり、この世界の煩悩の塵に応同して衆に縁を結ぶこと。『止観』のことばによる。 ([[持名鈔#P--1010|持名鈔 P.1010]],[[御文三#P--1153|御文章 P.1153]]) |
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2023年2月9日 (木) 15:04時点における版
わこう-どうじん
和光同塵 「光を
仏教ではこの語を転用して、仏・
仏・
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「和光同塵」の項目