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『涅槃経』徳王品
 
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:善男子。諸佛如來 煩惱不起。是名涅槃。所有智慧於法無礙。是爲如來。如來非是凡夫・聲聞・縁覺・菩薩。是名佛性。如來身心智慧 遍滿無量無邊阿僧祇土 無所障礙。是名虚空。如來常住無有變易。名曰實相。以是義故。如來實不畢竟涅槃。是名菩薩。
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:善男子。諸佛如來 煩惱不起。是名涅槃。所有智慧於法無礙。是爲如來。如來非是凡夫・聲聞・縁覺・菩薩。是名佛性。如來身心智慧 遍滿無量無邊阿僧祇土 無所障礙。是名虚空。如來常住無有變易。名曰實相。以是義故。如來實不畢竟涅槃。是名菩薩 修大涅槃微妙經典 具足成就 第七功徳。
 
::善男子、諸仏如来は煩悩起らず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまふに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。'''如来は常住にして変易あることなければ'''、名づけて実相といふ。
 
::善男子、諸仏如来は煩悩起らず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまふに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。'''如来は常住にして変易あることなければ'''、名づけて実相といふ。
::この義をもつてのゆゑに、'''如来は実に畢竟涅槃せず'''、これを菩薩、大涅槃微妙の経典を修して、第七の功徳を具足し成就すと名づく。
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:以是義故、如来実不畢竟涅槃。是名菩薩。
 
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と訓じられた。当面は「如来は実に畢竟涅槃せず」と[[如来常住]]をいう文を、如来は涅槃にあらざると訓じて、往生して正覚を得た我らは如来と同じく[[還相]]の[[菩薩]]として涅槃には<kana>止(とど)</kana>まっていないと読まれた。如来は絶えず「[[従果還因]]」の菩薩として生死の世界で動的に活動する意をあらわすために、このように読まれたのである。<br>
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と訓じられた。当面は[[如来常住]]を享けて「如来は実に畢竟涅槃せず」とをいう文を、如来は涅槃にあらざると訓じて、往生して正覚を得た我らは如来と同じく[[還相]]の[[菩薩]]として涅槃には<kana>止(とど)</kana>まっていないと読まれた。如来は絶えず「[[従果還因]]」の菩薩として生死の世界で動的に活動する意をあらわすために、このように読まれたのである。<br>
 
[[智慧]]あるがゆえに[[生死]]に住せず。[[慈悲]]あるがゆえに[[涅槃]]に住せず、という'''「[[無住処涅槃]]」'''をあらわそうとされたのである。
 
[[智慧]]あるがゆえに[[生死]]に住せず。[[慈悲]]あるがゆえに[[涅槃]]に住せず、という'''「[[無住処涅槃]]」'''をあらわそうとされたのである。
 
:→[[還相]]
 
:→[[還相]]

2022年4月6日 (水) 11:50時点における版

ひっきょうねはんにあらざる

 如来は絶えず生死(しょうじ)の迷いの世界で活動されるから、涅槃にとどまらないという意。(真巻 P.348)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『涅槃経』徳王品

善男子。諸佛如來 煩惱不起。是名涅槃。所有智慧於法無礙。是爲如來。如來非是凡夫・聲聞・縁覺・菩薩。是名佛性。如來身心智慧 遍滿無量無邊阿僧祇土 無所障礙。是名虚空。如來常住無有變易。名曰實相。以是義故。如來實不畢竟涅槃。是名菩薩 修大涅槃微妙經典 具足成就 第七功徳。
善男子、諸仏如来は煩悩起らず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまふに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ。
この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃せず、これを菩薩、大涅槃微妙の経典を修して、第七の功徳を具足し成就すと名づく。
『涅槃経』の原文と訓:
以是義故、如來實不畢竟涅槃。
この義をもっての故に、如来は実に畢竟涅槃せず。
是名菩薩 修大涅槃微妙經典 具足成就 第七功徳。
これを菩薩、大涅槃微妙の経典を修して、第七の功徳を具足し成就すと名づく。(*)
御開山の訓:

原文の如来実不畢竟涅槃と次の文である是名菩薩で文を切り、これを菩薩と名づく」とされ、修大涅槃微妙経典 具足成就 第七功徳、以下を略され、

以是義故、如来実不畢竟涅槃。是名菩薩。
この義をもつての故に、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく。(真巻 P.348)

と訓じられた。当面は如来常住を享けて「如来は実に畢竟涅槃せず」とをいう文を、如来は涅槃にあらざると訓じて、往生して正覚を得た我らは如来と同じく還相菩薩として涅槃には(とど)まっていないと読まれた。如来は絶えず「従果還因」の菩薩として生死の世界で動的に活動する意をあらわすために、このように読まれたのである。
智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず、という無住処涅槃をあらわそうとされたのである。

還相
無住処涅槃