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「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]])  
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これは後述する『華厳経探玄記』にある「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」に拠れば、名は「呼召」<ref>まねきよぶこと。呼び寄せること。</ref>の義、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である。<br>
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これは後述する『華厳経探玄記』にある「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」に拠れば、名は「呼召」<ref>まねきよぶこと。呼び寄せること。</ref>の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である。<br>
『無量寿経』には、法蔵菩薩因位の段では名の字が用いられるが、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは号の字がもちられている。本願が成就して、阿弥陀仏となられた果位においては名号となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。
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『無量寿経』には、法蔵菩薩因位の段では名の字が用いられるが、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは名号の字がもちられている。本願が成就して、阿弥陀仏となられた[[果位]]においては名号となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。
 
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:「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。
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:「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。
 
:「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。
 
と、されたのであった。
 
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「本願成就文」
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「本願成就文」には「その名号を聞きて、信心歓喜せん」とある。
 
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あらゆる衆生、その'''名号'''を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。([[大経下#no22|大経 P.41]])
 
あらゆる衆生、その'''名号'''を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。([[大経下#no22|大経 P.41]])

2020年6月23日 (火) 15:09時点における版

みょう の じ…

 『唯信鈔文意』700頁1行以下参照。 (正像 P.621)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「自然法爾章」に、

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。(正像 P.621)

とあり、『唯信鈔文意』には

「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。(唯文 P.700)

とある。
これは後述する『華厳経探玄記』にある「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」に拠れば、名は「呼召」[1]の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である。
『無量寿経』には、法蔵菩薩因位の段では名の字が用いられるが、衆生済度の名号〔なんまんだぶ〕の功徳が成就してからは名号の字がもちられている。本願が成就して、阿弥陀仏となられた果位においては名号となっているところから、御開山は名と号を分けて考察されたのであろう。 それを、

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。

や、

「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、「名」はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。

と、されたのであった。

「本願成就文」には「その名号を聞きて、信心歓喜せん」とある。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。(大経 P.41)

名号
『華厳経探玄記』

於中 名謂釈迦等別名。号謂十号諸仏通名。

中において、名は謂はく、釈迦等の別名、号は謂はく、十号、諸仏の通名なり。

又召体為名。標徳為号。

また、体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す。

又亦名号無別。如文内説。

また、名と号と別無し、文の内に説くが如し。(『華厳経探玄記』巻第四)

  1. まねきよぶこと。呼び寄せること。