操作

「蓮如」の版間の差分

提供: WikiArc

 
14行目: 14行目:
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
[[WDM:れんにょ]]
+
:→[[安芸の蓮崇]]
 +
*→[[WDM:れんにょ]]

2019年1月31日 (木) 06:27時点における版

れんにょ

吉崎西別院蔵 おかたみの御影CG版

 (1415-1499)本願寺第八代宗主。第七代存如(ぞんにょ)上人の長子。(いみな)兼寿(けんじゅ)。院号は信証院。十七歳の時、青蓮院(しょうれんいん)で得度し、父に真宗教義を学び、近江、北陸の教化(きょうけ)を助け、東国の親鸞聖人の遺跡を巡拝した。

長禄元年(1457)四十三歳で本願寺を継いで近江の教化を進めたが、寛正六年(1465)延暦寺衆徒の本願寺破却によって、河内・近江等に移った。文明三年(1471)越前吉崎に坊舎を建て、御文章等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州(おうしゅう)に教線を拡められた。

同六年(1474)頃から加賀において領主・在地武士などの擾乱(じょうらん)が絶えず、本願寺門徒の一部もその渦中に陥るようなこともあって、翌七年(1475)、吉崎を退去した。

その後摂津、河内、和泉に布教し、同十三年(1481)、山城国山科(やましな)に御影堂、阿弥陀堂を建てて本願寺の再興をなしとげられ、延徳元年(1489)に隠居された。

親鸞聖人、覚如(かくにょ)上人、存覚(ぞんかく)上人の教説をうけて直截で明快な文体の『御文章』や法語をもって伝道につとめ、今日の本願寺教団の基盤をつくり、本願寺教団中興の祖と仰がれている。著書に『御文章』『正信偈大意』などがある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

安芸の蓮崇