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信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。<br />
 
信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。<br />
  
『教行証文類』の、上に挙げた漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでおられる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文のまま読まれておられた。以下は御自釈に於ける「まことにしんぬ」と訓じられている用例。
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『教行証文類』では、上に挙げた漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでおられる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文のまま読まれておられた。以下は御自釈に於いて「まことにしんぬ」と訓じられている用例。
  
 
:信知 ([[行巻#no77|行巻 P.188]]),([[信巻本#P--234|信巻 P.234]]),([[信巻本#no50|信巻 P.245]]),([[化巻本#no69|化巻 P.413]])
 
:信知 ([[行巻#no77|行巻 P.188]]),([[信巻本#P--234|信巻 P.234]]),([[信巻本#no50|信巻 P.245]]),([[化巻本#no69|化巻 P.413]])
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『涅槃経』には、法を認知することを「見」といい、「見に二種あり。一つには眼見、二つには[[聞見]]なり」([[真巻#P--356|真巻 P.356]])とある。いわば眼見とは、体験という個別(特殊)的な経験をいい、'''[[聞見]]'''とは法を聞くことによって法を[[信知]]することをいふのであろう。<br />
 
『涅槃経』には、法を認知することを「見」といい、「見に二種あり。一つには眼見、二つには[[聞見]]なり」([[真巻#P--356|真巻 P.356]])とある。いわば眼見とは、体験という個別(特殊)的な経験をいい、'''[[聞見]]'''とは法を聞くことによって法を[[信知]]することをいふのであろう。<br />
そのような意味に於いて「まことにしんぬ」や「あきらかに知んぬ」という表現は、自己の体験ではなく「[[聴聞]]」によって'''[[仏願の生起本末]]'''を知らされることであった。これを「'''[[信知]]'''(まことにしんぬ)」といふ。仏教では身・口・意の「[[三業]]」をたて、身・心(意)の他に口業([[語業]])を示す所以である。
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そのような意味に於いて「まことにしんぬ」や「あきらかに知んぬ」という表現は、自己の体験ではなく「[[聴聞]]」によって'''[[仏願の生起本末]]'''の由来を知らされることであった。これを「'''[[信知]]'''、真知、誠知、良知(まことにしんぬ)」といふ。仏教では身・口・意の「[[三業]]」をたて、身・心(意)の他に、口業([[語業]])を重視する所以である。特に信を重んじる浄土真宗では言葉(語業)を大切にするのであった。
  
 
:→[[聞見]]
 
:→[[聞見]]

2018年9月15日 (土) 14:06時点における版

信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。

『教行証文類』では、上に挙げた漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでおられる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文のまま読まれておられた。以下は御自釈に於いて「まことにしんぬ」と訓じられている用例。

信知 (行巻 P.188),(信巻 P.234),(信巻 P.245),(化巻 P.413)
真知 (信巻 P.231),(信巻 P.244),(信巻 P.264),(化巻 P.412)
誠知 (行巻 P.190),(信巻 P.266),(証巻 P.335)
良知 (行巻 P.187),(行巻 P.197),(化巻 P.383)

なお、明知(あきらかに知んぬ)という表現も3例ある。

明知 (行巻 P.186),(信巻 P.230),(真巻 P.370)

『涅槃経』には、法を認知することを「見」といい、「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり」(真巻 P.356)とある。いわば眼見とは、体験という個別(特殊)的な経験をいい、聞見とは法を聞くことによって法を信知することをいふのであろう。
そのような意味に於いて「まことにしんぬ」や「あきらかに知んぬ」という表現は、自己の体験ではなく「聴聞」によって仏願の生起本末の由来を知らされることであった。これを「信知、真知、誠知、良知(まことにしんぬ)」といふ。仏教では身・口・意の「三業」をたて、身・心(意)の他に、口業(語業)を重視する所以である。特に信を重んじる浄土真宗では言葉(語業)を大切にするのであった。

聞見
聞即信
聴聞