「興福寺奏状と教行証文類」の版間の差分
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2018年8月31日 (金) 17:33時点における版
目次
第一節『興福寺奏状』と『教行証文類』
四、浄土宗独立への批判と反論
第一、新宗を立つる失
我が国には、すでに八宗があって、中古以来、宗を開くものがいなかったのは、これで機感が足りているからであろう。然るに今、法然は面授口決の師もなく、はっきりとした相承もなくして一宗を開くことは、自身が伝灯の太祖だというのか。また開宗には「須下奏二公家一以待中勅許上、私号二一宗一甚以不当」「隠/顕」法然がみずから、相承血脈の法なく、面授の師なしと公言されたのは、文治六年に東大寺で講ぜられた「小経釈」(真聖全四・三八二頁)のときで、恐らく貞慶はこれによって法然を批判していたと考えられる[1]。『選択集』はまだ読んでいなかったと推察されるが、『選択集』「二門章」(真聖全一・九三四頁)には、一往浄土宗の相承を明かして『安楽集』による六師と、『唐・宋両伝』による六師とをあげてある。また「浄土五祖伝」(『漢語灯』九・真聖全四・四七七頁以下)には、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の五祖相承を示されたが、法然の基本的な立場は「偏依善導一師」であったことは『選択集』(真聖全一・九九〇頁)その他に言明された通りである。従っていわゆる師資相承は必ずしも明確ではなかったといえよう。そこで親鸞は、法然の意をうけてさらに展開し、「正信偈」や『高僧和讃』に、いわゆる七祖相承を明示して、師資相承なしという批判に応答していかれたのである[2]。
ところで開宗には「必ず勅許を待つべし」という批判は、律令体制下にあっては当然の主張であった。律令体制にかぎらず、国家が宗教をその支配体制のなかに完全に組み入れようとするときは、当然このような立場をとるし、体制内宗教は、いつでも新宗教に対して貞慶の如き主張をするわけである。ただ法然がめざしていた宗教的世界は、一人一人の悩める凡夫が、如来の大悲を聞き、念仏して大悲に包摂せられ、そこに絶対の安住の場を得しめられていくという宗教的領域であった。念仏者は、社会的な階層を超えて、平等に、一人一人が如来の教法のなかで、往生人としてめざめていくという個人の救いをめざす宗教が法然の浄土宗であった。それゆえにまた全人類的な視野をもつ世界宗教として成立していったのである。そのような宗教的世界においては、人はみな如来の前にあって平等に一子の如く憐念されているものとして見出されていった。このような宗教的世界観を支えるものは、ただ如来の教法の権威のみであり、本願の教法に無私に信順するものだけが、その世界に入りうるのであった。
選択本願を宗旨とする浄土宗は、根源的には如来の本願によって立つものであって、世俗の権力によって許可されなければ成立しえないというものではなかった。浄土宗が、この自立性を失って、世俗の権力に迎合することを法然はきびしく拒絶したのであった。承元(建永)の法難によって四国へ配流される直前に、次のような法語を法然は残されている。
- 当初依弟子過、有被流讃岐国云事、其時対一人弟子、述一向専念義。西阿弥陀仏云弟子推参云、如此御義、努(力カ)々々不可有事候、各不可令申御返事給云々、上人云、汝不見経釈文哉、西阿弥陀仏云、経釈文雖然、存世間譏嫌許也。上人云、我雖被截頚、不可不云此事云々、御気色尤至 誠也、奉見人々流涙随喜云々[3]。
法然は決して、世俗の権力を否定したのではなかった。たゞ仏法が世俗の権力に迎合して、みずからが依って立つ本願の仏意をゆがめるようなことは決して許さなかったわけである。法然にとって絶対的な権威は経釈の文意であった。これだけは、世俗の権力に抗してでも護り伝え、頚を截られてもいはねばならないといい切られたところに、法然の浄土宗が、国家権力とは全くちがった次元、すなわち選択本願に依って立ち、仏祖の経釈の権威と、それを信奉する念仏者によって成立し、護持されていたことがわかる。『行状絵図』三七(法然伝全・二四ニ頁)によれば信空が法然の御遺跡をどこに定むべきかとたずねたとき、
- あとを一廟にしむれば、遺法あまねからず、予が遺跡は諸州に遍満すべし、ゆヘいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化也。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず海人漁人がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし。
と答えられたという。この語が法然のものかどうかたしかめるすべはないが、少くとも門弟たちは、法然の信仰をこのように領解していたということは明らかである。すなわち法然が、一廟一寺に自己の遺跡を定めようとせず、念仏する人の心奥に遺跡を確立しようとされていたということは、さらにいえば浄土宗は念仏者一人一人の中で信と行によって確立されるべきであるとみられていたと考えてよかろう。ここに宗の建立は「公家に奏して以て勅許をまつべし」という貞慶の思想との根本的なちがいがあった。のちに親鸞が「余の人を強縁として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめくまふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ」[4]といい、念仏者以外の権力者の手をかりて仏法を弘めることを、きびしく誡められた。本願によってのみ自立すべき仏法を、俗権にゆだねていくことの危険性をよく知っておられたからである。法然や親鸞が浄土宗(浄土真宗)の開宗に、あえて勅許を求めようとしなかった所以もそこにあったのではなかろうか。
「十一箇条問答」(『指南抄』下本・真聖全四・二一三頁)によれば、法然は浄土宗の開宗について、余宗から論難をうけたのに対して次のように応答されている。
- 問、八宗九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由にまかせたつること、余宗の人の申候おばいかゞ申候べき。答、宗の名をたつることは仏説にはあらず、みづからこゝろざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひ、みなかくのごとし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経(正依経)につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまヘる先達の宗の名をたてたまヘるなり。宗のおこりをしらざるものゝ、さようの事をば申なり。
もともと宗の名は釈尊が立てられたものではなくて、各宗の祖師といわれる人々が、みずからに有縁の経教を学び、義理をきわめて宗義を確立し、宗名を立てていかれたのである。いま浄土宗を立てるのも、浄土三部経の奥義をさとりきわめて、そこに凡夫入報の仏意を釈顕された善導の釈義により、元暁等の先例にしたがって「浄土宗」の名を立てるのであって、決して「自由にまかせたつること」ではないといわれるのである。このように立教開宗の正当性を主張されたのが『選択集』「二門章」であった。貞慶は『選択集』は読んでいなかったにせよ、たとえば「大経釈」をみていたならば、このような法然の主張を知ることができたはずである。にもかかわらず、浄土宗を立つることを不当と非難するところに、律令体制下の既成仏教と、法然教学とは本質的なちがいがあったといわねばならない。すなわち律令によって規定された通り、国家公認のもとに、国家(実際は天皇と公家)の安穏を祈る鎮護国家のつとめを仏法の第一の使命とみている既成仏教と、彼等が関心の外に追いやっていた庶民のなかにあって、生死にまどい、愛憎に苦しむ庶民大衆に、真実の救いの道を開くことを仏法の第一義とみなして開宗した法然の浄土宗とは、その発想の根底から異っていた。両者は所詮違った道を行くしかなかったのである。
ところで『奏状』には、立宗の法則について次のようにのべている。
- 凡立宗之法、先分義道之浅深、能弁教門之権実、引浅兮通深、会権兮帰実。大小前後、文理雖繁、
不出其一法、不超其一門。探彼至極以為自宗。
法然が浄土宗を立てたとき、聖道の諸宗と根本的に立宗の目的を異にしていた。聖道門の諸宗は、教理の浅深を問題として教相判釈をおこなって立宗したのに対して、法然は、教理の浅深よりも、時機相応の教法を選択するというところから出発していた。教理が如何に深遠であっても、戒定慧の三学に堪えられない愚鈍のものにとっては、「理深解微」の故に無縁の法でしかなかった。かくて末法五濁の凡愚という「わが身に堪えたる法」を求めて到達したのが「極悪最下の人のために、極善最上の法を説く」選択本願念仏の法門だったのである。そこから聖道門を捨てて、浄土門に帰すという浄土宗独立の宣言がなされていったのであった。
親鸞は、この法然の立宗の根本精神を継承しつつさらに展開し、聖道門内に成仏の遅速に応じて漸教(権教)と頓教(実教)を分類して、竪出(権教)、竪超(実教)とし、浄土門内にも自力の漸教(権教)と他力の頓教(実教)とを分けて、横出(権教)、横超(実教)とし、竪出竪超、横出横超の二双四重の判釈をおこなわれたのであった。しかもこの二権二実の立場に立つ二双四重判をさらに深めて、「行文類」(真聖全二・三八頁)の一乗海釈には、
- 大乗无有二乗三乗、二乗三乗者入於一乗。一乗者即第一義乗也、唯是誓願一仏乗也。
といって、全仏教を念仏成仏の法門である浄土真宗に統一し、誓願一仏乗という三権一実の法門を樹立していかれたのであった。こうして『奏状』に、
- 若夫以浄土念仏名別宗者、一代聖教唯説弥陀一仏之称名、三蔵旨帰、偏在西方一界之往生歟。
と皮肉な反語をもって非難したものを真向から受けとめて、『教行証文類』の総序(真聖全二・一頁)には、
- 爾者凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。
と言い切っていかれたのであった。
第二、新像を図する失
これは専修念仏の伝道者が、摂取不捨曼荼羅とよばれる図像を用いて絵解きをし、民衆教化に絶大な成果をあげていったことに対する反発である。
- 近来諸所翫一画図、世号摂取不捨曼陀羅、弥陀如来之前有衆多人、仏放光明、其種々光、或枉而横照、或来而返本、是顕宗学生、真言行者為本、其外持諸経誦神呪、造自余善根之人也、其光所照、唯専修念仏一類也。
鎌倉時代の摂取不捨曼荼羅が現存しているといわれているが、私はまだ見ていない。しかしこの説明文で大体のことはわかる。顕密の学僧や、諸行を修して往生を願っている「聖」たちのところでは、光は横にそれたり、返照して、彼等は光の外にはじき出されていた。そして出家在家をえらばず専修念仏者はすべて光の中に摂め取られているという図柄になっている。これは明らかに『観経』の「念仏衆生、摂取不捨」の文意を、善導が『観念法門』(真聖全一・六二八頁)に、
- 但有専念阿弥陀仏衆生、彼仏心光常照是人摂護不捨。総不論照摂余雑業行者。
と釈されたのをうけた、『選択集』「摂取章」(真聖全一・九五五頁)や「観経釈」(『漢語灯』一・真聖全四・三四三頁)などの意を図像化したものである。現実の社会では、人間としての存在を認められないほど抑圧され搾取されていた民衆や、民間宗教家として体制外に生きていた「聖」たちが、念仏者になることによって、如来の光の中に摂取され、真の仏弟子として認知されていくのである。それに対して体制内の僧侶たちは、如来の光の外に、すなわち真実の仏法から外れたところにいるということを暗示しているこの図像は、たしかに専修念仏者が、既成の仏教に対してなした大胆な挑戦であったといえよう。 だから明恵の『摧邪輪』にも、無住の『沙石集』などにもとりあげられてはげしく非難されているのである。
ところで『奏状』には、「念仏衆生、摂取不捨」について、法然と全くちがった見解を出して、摂取不捨曼荼羅の不当なることを指摘している。
- 上人云、念仏衆生摂取不捨者経文也、我全無過云々、此理不然、偏修余善、全不念弥陀者、実可漏摂取光、既欣西方、亦念弥陀、寧以余行故、隔大悲光明哉。
ここに貞慶の基本的立場である諸行往生説の主張がみられるが、それについては後述することにして、親鸞が『教行証文類』において、「念仏衆生、摂取不捨」の金言を、行信の益として救済成立の基盤とされていることに注目してみよう。まず「行文類」(真聖全二・三三頁)には、
- 何況十方群生海、帰命斯行信者、摂取不捨、故名阿弥陀仏。是曰他力。是以龍樹大士、曰即時入必定、曇鸞大師、云入正定聚之数。仰可憑斯、専可行斯也。
といい、『礼讃』の釈義をうけて、摂取不捨を阿弥陀の名義とし、これを仰信し、専修するものは、名義の如く摂取不捨の益を与えられるから、即時に必定に入り、正定聚に住せしめられるといって、現生正定聚説を確立しておられる。
また「信文類」(真聖全二・七二頁)では、現生十益の第六に心光常護益をあげ、真仏弟子釈(同・七八頁)には摂取不捨曼荼羅の根拠となったと考えられる『観念法門』の文が引用されて、念仏者のみが真仏弟子であることの証拠とされている。また「不論照摂余雑業行者」という部分だけが、「化身土文類」(同・一五二頁、同・一五六頁)に引用されて、諸行が仏心にかなわない方便仮門であることの証文とされている。宗祖が摂取不捨曼荼羅を用いて伝道されたかどうかはわからないが、それが決して「古師の本説に乖く」ものでないことをこうして論証されていった。後に親鸞の門流で多く用いられた光明本尊は、これの変型とも考えられる。
五、釈尊観と神祇観
第三、釈尊を軽んずる失
「夫三世諸仏慈悲雖均、一代教主恩徳独重」、しかるに専修は阿弥陀仏以外の余仏を礼称せずといって釈尊を軽んずるが、本師の名を忘れた憐れむべきものであると論難するのである。
貞慶の釈尊観は、彼が建仁元年に唐招提寺でおこなった釈迦念仏会の願文(日仏全)によって知ることができる。それによれば、釈尊は、諸仏の棄てたまうた十悪五濁の娑婆の導師として出現し、大悲の本願をもって極悪の穢土を救いたまう慈悲の父母である。一体に四徳を兼ねた比類なき能化の本師であって、仏々平等であるとしても、娑婆の我等にとって第一と仰ぐべきであるとしている。だから彼は弥陀念仏に対して釈迦念仏を提唱したのであって、この釈尊中心主義は、明恵、日蓮に継承されていくのであった。彼等が弥陀中心主義の専修念仏に鋭く対決してきた根底には、このような仏陀観の違いがあったのである。
これに対して法然の釈尊観は、聖道門の教主としての面と、浄土三部経の教主として、選択本願念仏の一道を指勧する発遺の仏としての面とを見ていかれる。そして聖道を捨てて、浄土に帰せしめていくところでは、招喚の救主阿弥陀仏に対して、弥陀念仏の一道を教える発遺の善知識としての地位に立たれることになる。ここに釈尊を最尊の仏と仰ぐ貞慶と根本的なちがいがあった。
親鸞は「信文類」真仏弟子釈(真聖全二・七五頁)に、念仏者を真仏弟子とよび「釈迦、諸仏之弟子」と言明されたが、これは貞慶や明恵の論難を意識されていたと考えられる。ところで親鸞の釈尊観は、法然をうけつつ発遺の教主としての釈尊を、第十七願によって位置づけ、十方の諸仏とともに第十七願力に乗じて出現し、本願の名号を讃嘆することを出世の本懐としている能讃仏とし、さらに『和讃』にいたれば、釈尊は、久遠実成の阿弥陀仏の応現であるとして、完全に阿弥陀仏中心の仏陀観を確立されていくのであった。
第四、万善を妨ぐる失
法然が諸善万行を廃捨したことを非難するもので、第六の「浄土に暗き失(浄土を暗くする失)」と同意である。 ただ第六が往生浄土の行業としての諸行を廃したことを非難するのに対して、今は広く万善諸行を廃捨したことを謗法罪であると論難している。br> 彼によれば、すべて善根は、釈尊が永劫にわたる難行苦行をかさねて、それが成仏道であることをたしかめられたものであって、機縁に応じて行ぜしめ、病に応じて与え、それぞれ解脱させていく出離の要路である。しかるに法然は、弥陀の名号を専修する一行のみに偏執して、万善諸行という出離の要路を捨てしめたことは、まさに謗法罪にあたる。法然には謗法の意志はなかったかも知れないが、門弟たちの行状からすれば、師弟ともに同罪であるといわねばならぬ。ところで『大経』によれば「弥陀悲願引摂雖広、誹謗正法捨而無救」、それゆえ法然一門は、阿弥陀仏からも見捨てられたものというべきだとしている。
特にここに法然によって廃捨された万善諸行の例として、『法華経』の読誦をはじめ、華厳、般若の帰依、真言、止観の結縁、堂塔の建立、尊像の造図など、当時の仏教界で善根として勧進されていたすべてが「土の如く、沙のごとく」捨てられていった状況をのべている。
ところで法然によれば、弥陀念仏は、阿弥陀仏が因位に選択摂取し、その仏徳のすべてをこめて成就された往生の行法であって、選捨された諸行とは質的にちがっていることを明かそうとされていた。その意をついで展開した親鸞は、『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四三頁)に名号を「万行円備嘉号」といい、「大行者、則称无光如来名。斯行・摂一切行極速円満」といい、また「万善円修之勝行」といって、一行に万善円修の徳をもつ至極の勝行であることを顕示し、念仏を万行中の一行とみる貞慶らの考えを論破していくのであった。
また万行を捨てて、念仏一行を専修し浄土を願生することは、弥陀の本願、釈尊の発遣、諸仏の証誠に随順する真仏弟子としての正当な行動であって、決して誹謗正法でないことは、すでに善導が『散善義』(真聖全一・五三四頁)で確認されていることであるとして、親鸞は「信文類」(真聖全二・七五頁)に真仏弟子釈を施されたのであった。そしてむしろ謗法のとがを受けねばならないのは、専修念仏者を弾圧した興福寺や叡山の僧徒であり、主上臣下であると告発しておられる。すなわち「信文類」(真聖全二・一〇二頁)に『薩遮尼乾子経』によって大乗の五逆を出すなかに、
- 三者、一切出家人、若戒、無戒、破戒、打罵責、説過禁閉、還俗駈使、債調断命。
という罪状をあげ、また「化身土文類」(同・一九〇頁)に『大集経』を引いて、
- 若復出家不持戒者、有以非法而作悩乱、罵辱毀呰、以手刀杖打縛斫截。若奪衣鉢、及奪種種資生 具者、是人則壊三世諸仏真実報身、則排一切天人眼目。是人為欲隠没諸仏所有正法三宝種故。
等といわれたものがそれを雄弁に物語っている。
第五、霊神に背く失
- 念仏之輩永別神明、不論権化実類、不憚宗廟大社、若牒(恃カ)神明必堕魔界云々、於実類鬼神者 置而不論、至権化垂跡者既是大聖也、上代高僧皆以帰敬。
法然一門の専修念仏者は、弥陀一仏に帰して、余仏余菩薩を信心の対象としなかったほどであるから、神々を帰依の対象としなかったのは当然である。ところがこのことを仏教徒から非難されねばならなかったところに、神仏習合思想に立つ旧仏教と法然の専修念仏との本質的な性格のちがいがあったとみねばならない。
例えば、真宗教徒がキリスト教の神を信じないからといって、天台宗や法相宗の学僧から非難を受ける筈がないのに、神道という異教の神を信じないからといって、何故興福寺から非難されねばならないのであろうか。この非難を正当化する理論が本地垂迹説だったのである。すなわち神々を実類の鬼神と権化の霊神に分け、鬼神は別として、権化の霊神は、仏、菩薩の垂迹であるから本地は大聖である。故に霊神に帰依しないことは仏に帰依しないことになるというのである。尚神祇を権化の霊神と実類の鬼神に分類したのはこれが初めである。
異教の神々を本地垂迹という巧妙な理論で仏教の中にとりこみ、在来宗教と渡来宗教との宗教政治的融合をはかったことが、逆に仏教を純化しようとしたとき、迫害の論拠になったということはまさに皮肉である。親鸞が本地垂迹説を用いないのは法然の神祇観をうけたこととともにこの思想が専修念仏者の息の根を止めようとして迫ってきた最も危険な刃だったからでもあろう。それに対して貞慶は『春日大明神発願文』を書いているように敬神家であって、本地垂迹説は彼の信仰そのものであった。親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一七五頁)において、
- 夫拠諸修多羅勘決真偽、教誡外教邪偽異執者、涅槃経言、帰依於仏者、終不更帰依其余諸天神。
といって、仏教者が異教の神々に帰依することがあってはならないと、諸部の経論によって教誡されたものは、明らかに旧仏教の不純性を批判されたものであった。いわば彼等は「外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」(『和讃』・真聖全ニ・五二八頁)といわれた偽の仏弟子に類するものだったのである。
ところでこの条の最後に、
- 末世沙門猶敬君臣、況於霊神哉、如此麁言、尤可被停廃。
といわれている。末世の沙門が君臣を敬することと、敬神とが何故対置されているのであろうか。けだし地上の支配体制と、神々の系譜とが対応しているからであろう。伊勢神宮が皇室の祖先神であり、春日神社が藤原氏の氏神であるとすれば、宗廟大社を憚からないことは、やがて地上の支配体制である主上臣下の神聖性を否認することになってくる。国家権力に従属している律令体制下の仏教にあっては、「沙門は、君臣を敬す」べきことが義務づけられていた。従ってその君臣があがめている宗廟大社の霊神に帰敬することは、当然のこととして要求されていたのである。だから「此の如き麁言、尤も停廃せらるべし」と奏上したわけである。
親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一九一頁)に『菩薩戒経』を引いて、
- 出家人法、不向国王礼拝、不向父母礼拝、六親不務、鬼神不礼。
といましめられたのは、真の仏教者は、あらゆる世俗の権威からも、他の宗教的権威からも独立自立し、仏法のみを敬信べきことを明確にして、『興福寺奏状』と対決していかれたものと考えられる。
六、諸行と念仏の問題
第六、浄土に暗き失(浄土を暗くする失)
諸行を廃し、諸行往生を認めない法然は、浄土教に暗く、人々を誤るものであると論難するのである。まず『観経』の三福、九品の行業をあげ、曇鸞の『略論』、道綽の『安楽集』、善導の伝記等を例証として、
- 上自三部之本経、下至一宗之解釈、諸行往生盛所許也。
といい諸行往生こそ経釈の正義であると主張している。ついで往生伝等によって、曇融、善晟等が事相の一善によって順次往生を遂げたのに対して、念仏のみを行じて『大般若経』を書写しなかった道俊、専修のみを行じて釈迦像を造立しなかった覚親たちが往生の障りを感じたというあやしげな事例をあげ、「まさにしるべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、たゞ心にあり」といっている。ここにいう「たゞ心にあり」という「心」とは彼の『愚迷発心集』(岩波日本思想大系一五・二八頁)にみられる「一念の道心」であり、『観心為清浄円明事』(前出)にいわれる「清浄円満月輪の如き」真如にかなった菩提心のことであろう。石田充之氏は、貞慶の『心要鈔』(大正蔵七一・五〇頁)に、「唯識観によって一心を制伏す」といわれた性唯識一心の成就をさすとされる。
ところで専修のものは、救い難い造悪者に、ほしいままに救われるといい、往生し難い小善に過ぎぬ口称のものに、上善の人と倶に往生を得るというが、本願の「乃至十念」の文意をよく知るべきである。十念は同じ念仏でも生じ易き観念や多念に対して、最下の行業をあげたものに過ぎない。戒慧ともにかけた者の「仮名の念仏は浄業熟し難く、順次往生の本意に違失あり」としなければならない。然るに専修のものは、観念の本を忘れて称名の末につき、口称の劣行をたのんで勝行たる諸行を往生の業に非ずと欺いている。どうしてそれが仏意にかなおうか。 『観経』に説かれたように、凡聖が浄土に往生するとき、仏は各々の先世の徳行に応じて上々から下々にいたる九品の階級を与えたまうのも、自業自得の道理の必然である。専修のものは下々の悪人が、上々の賢善者と倶生するように考えているが、それは「偏ヘに仏力を憑みて、涯分を測らざる愚痴の過」をおかしているというべきと非難している。
この非難のなかに、称名のみを決定業として専修し、諸行を捨てるのは、「凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等の道を失う」ことであるということばがある。貞慶にせよ、明恵にせよ、元来浄土とは、法蔵菩薩が総別の菩提心(本願)をおこし、万行を修して成就された世界であるから、浄土に往生しようと志すものは、当然菩提心をおこし、諸善万行を修して願生すべきであると考えていた。だから法然が菩提心と諸行を廃捨したことは、まさに暴論としか思えなかったのである。但し貞慶は『選択集』を読んでいなかったためか、菩提心廃捨を直接とりあげていないが、明恵は菩提心論を中心に論難したことは周知の通りである。ともあれすべての善行は、その体真如に随順し、仏果、浄土に向かう徳をもっていて、例えば念仏よりも『法華経』読誦を好むものには、それを勧め、布施行を有縁とするものには、布施を行ぜしめて往生せしめるというように、すべての機縁に応じて導くことが「仏界平等の道」であるというのが、貞慶や明恵のいう諸行往生説のすわりであった。 貞慶らにとって平等とは、因行の勝劣に相応して、勝劣の果報を感得することであった。行徳高きものと行業劣弱なものとが同一果報をうることは不平等であり、因果の道理を撥無する邪見であると考えていたのである。
- 彼帝王布政之庭、代天授宮之日、賢愚随品、貴賎尋家、至愚之者、縦雖有夙夜之功、不任非分之職、下賎之輩、縦雖積奉公之労、難進卿相之位、大覚法王之国、凡聖来朝之門、授彼九品之階級、各守先世之徳行、自業自得其理必然、而偏憑仏力不測涯分、是則愚癡之過也。
というところに、貞慶らのいう「仏界平等の道理」とは、実は自業自得の因果応報の理に従って無量の差別を生み出していく原理だったのではなかろうか。
これに対して法然が釈顕される他力不思議に裏づけられた選択本願における平等の道理は、一切衆生を善悪、賢愚、持戒破戒のヘだてなく、平等に涅槃の果徳を得しめるという絶対平等の救済が成立するような道理であった。
『選択集』「本願章」や、「大経釈」によれば、法蔵菩薩は、平等の大悲に催されて、選択を示現されるが、そこでは機の善悪にかかわりなく、誰でも、何時でも、何処でも受行できる至極の易行たる称名に、仏徳のすべてをこめて、最勝の行として選びとることによって、平等の慈悲を具現されたといわれている。すなわち必ず救われないものを生みだすような諸行を選び捨てて、万人が一様に救われる勝易具足の一行を選び取ったところにこそ、「仏界平等の理」の具現があるとするのであった。ここに両者の思想の根本的な違いがみられる。
自業自得の理にしたがって、各人各別の諸行によって浄土に往生するところには、当然九品の差別が厳然とあるが、平等大悲の願心の具現である本願他力の念仏によって得る、真実報土には九品の差別はないはずである。だから法然も九品の差別を本質的には否定されたのであるが、そのことを明確に顕示されたのは親鸞であった。「信文類」(真聖全二・七三頁)に、
- 大願清浄報土、不云品位階次、一念須臾頃、速疾超証无上正真道。故曰横超也。
といい、また、
- 念仏衆生、窮横超金剛心故、臨終一念之夕、超証大般涅槃。(同・七九頁)
といわれた如くである。これに対して諸行往生のものは、みずからの行業の強弱によって、千差万別の果を感得するから、
- 良仮仏土業因千差、土復応千差、是名方便化身化土、由不知真仮、迷失如来広大恩徳。(「真仏土文類」真聖全二・一四一頁)
と釈し、諸行往生を以て方便仮土の業因として位置づけ、自力諸行は方便、他力念仏は真実、という真仮の法門をあきらかにされたのであった。ともあれ『興福寺奏状』が提出した諸行往生の問題は、後述する『延暦寺奏状』でも、明恵の『摧邪輪』でも取りあげられ、法然滅後の浄土宗教団に課せられた最も大きな問題の一つとなっていったのである。
第七、念仏を誤る失
法然は、口称念仏を最上のごとく主張するが、元来仏教では観勝称劣が通規であって、極劣の称名を決定往生の業であるかの如く誤っていると論難するのである。
念仏といっても、所念の仏に仏名あり、仏体あり、仏体に事仏と理仏の別があり、理仏を最高とし、仏名を最下とする。また能念の相に口称と心念があり、心念に繋念と観念がある。その観念に散位から定位へ、有漏定から無漏定ヘと浅深次第があって、口称は最も浅劣であり、無漏の定善観は最も深勝である。
かくいえば専修の輩は一様に、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」というが、彼等は第十八願のみを本願と号して、他の四十七の大願を隠してしまっている。その第十八願にしても「乃至十念」と誓われたのは、「観念を以て本とし、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨て」ざる大悲仏力の深さをあらわすために「その最下を挙げ」たに過ぎないのである。「その導き易く、生じ易きは、観念なり、多念なり、・・・かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取る」道理があろうか。だから「乃至十念」の口称念仏を本願の正意と見るのは誤りである。
- 設亦雖付口称、三心能具四修無闕、真実念仏名為専修、只以捨余行為専、以動口手為修、可謂不専之専也、非修之修也、憑虚仮雑毒之行、作決定往生之思、寧善導之宗、弥陀之正機哉。
という。こうして理深事浅、観勝称劣という聖道門の行道の価値観をもって、本願の行業を浅劣の行とし、善導もまたこの立場に立つといい、法然のいう如き専修念仏は、不専の専、非修の修で、煩悩まじりの虚仮雑毒の行であって、決定往生の行ではないとまで極言している。
ことに興福寺が法相宗であったことは、所依の論の一つである『摂大乗論』の念仏別時意説の底流があった筈である。だから貞慶は「道綽、善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず」とまでいい切るのであった。ただ善導は三昧発得の人だから、その説は一往認めるが、往生の業因をみきわめるときは、つねに一生補処の菩薩である弥勒とその祖述者たる無着、世親を依りどころとして会通しなければならないといっている。
このようにして、法然の説く選択本願念仏を真向から否定する『興福寺奏状』と鋭く対決していくのが、『選択集』の念仏論を継承する親鸞の「行文類」(真聖全二・五頁以下)であった。そこには、十方諸仏によって称讃されている「選択本願の行」こそ「浄土真実の行」であるとして、それを天台の『摩訶止観』の造語に準じて「大行」とよび、
- 大行者、則称无光如来名、斯行、即是摂諸善法、具諸徳本、極速円満、真如一実功徳宝海。故名大行。
・・・爾者、称名能破衆生一切无明能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。
と釈顕せられた。すなわち称名は、万徳を円満し、真如一実の徳の具現した無上の行法であって、衆生の一切の無明煩悩を破り、往生成仏の志願を満たしたまう徳用をもっている。それゆえ称名は、最勝にして真実なる正定の行業といわれる大行であるというのである。この親鸞の大行釈によって、観勝称劣、理深事浅という聖道門的な行業観はおのずから論破され、阿弥陀仏が大悲をこめて選択廻向せられた本願の念仏は、わずか一声に大利無上の功徳を円満する至易にして最勝の行であるから、この一行によって、一切の衆生が一人ももれず救われていく一乗無上の行法であることが明らかになっていくのである。
七、破戒と反社会性の問題
第八、釈衆を損ずる失
ここでは専修のものは、破戒を宗とし、造悪を憚かるなかれと教え、仏教徒を堕落させ、仏法を滅亡させようとしていると弾劾している。
- 専修云、囲棊双六不乖専修、女犯肉食不妨往生、末世持戒市中虎也、可恐可悪、若人怖罪憚悪、是不憑仏之人也、如此麁言流布国土、為取人意、還成法怨。
ここにあげたような表現は、専修念仏者の言い分を、非難し易いように悪意をもって表現しなおした、一種の流言であったと考えられる。たしかに不心得な念仏者のなかには、放逸無慚な反倫理的な振舞いをして非難されたものもあっただろうが、そのようなものは、民衆にうけ入れられるはずがない。民衆を動かした念仏の伝道者たちの言動は、それなりにまじめなものであったにちがいない。法然が『実秀に答ふる書』(『西方指南抄』下本・真聖全四・一九八頁)に、「ふかきみのりも、あしくこゝろうる人にあひぬれば、かヘりて、ものならずきこえ候こそ、あさましく候ヘ」と述懐されたことばが思いあわされる。
貞慶が、このころ戒律の再興に力をそそいでいたことは『戒律興行願書』(岩波日本思想大系十五・一〇頁)によって知ることができるが、彼の目には、公然と破戒無戒を宣言する専修念仏者たちは、許すべからざる不呈の輩に映ったにちがいない。
- 夫極楽教門盛勧戒行、浄土業因以之為最、所以者何、非戒律者六根難守、恣根門者三毒易起、妄縁纏身念仏之窓不静、貪瞋濁心、宝池之水難澄、此業所感豈其浄土哉。
といって、持戒を基礎として定慧をみがき、識を浄化し、転識得智して浄土を感得するという、唯識的な三学観の上にたって浄土教を見ていることは明らかである。従って「三学のうつわものにあらず」という自力無功の機の深信のうえに立つ法然教学とは、全く異質の思想であった。
ところが貞慶はすぐ下に、「たゞし末世の沙門、無戒、破戒なる、自他許すところなり。」ともいっている。恐らく彼の叔父で山門高位の僧であった安居院の澄憲も、その子聖覚も、いずれも公然たる妻帯者だったし、彼の身辺にはそのような例が無数にあったから、「自他許すところなり」といわざるを得なかったのであろう。しかし破戒無戒のものは浄土を感得できないとすれば、「自他許すところ」とは何を意味するのであろうか。彼は詞をついで、
- 雖不如実受、雖不如実持、怖之悲之、須生慙愧之処、剰破戒為宗叶道俗之心、仏法滅縁無大於此。
という。しかし破戒、無戒のものがいかに怖れ、悲しみ、慚愧したとしても、かかる下機の救われる道がなければどうしようもない。そこに聖道仏教の限界がみられる。彼には、専修のものが破戒、無戒を超えていく成仏道として、本願を信じ念仏しているのが、ただ法滅の声としか聞こえなかったのである。このような専修の僧尼が洛辺近国はもとより、北陸、東海の諸国にまではびこっているから、「勅宣ならざるよりは、争でか禁遏することを得ん。奏聞の趣、専らこれらにあるか」と結んでいる。ここに『興福寺奏状』が一番強調したかったことがらを見ることができる。
親鸞が「化身土文類」(真聖全二・一六八頁)に、
- 爾者、穢悪濁世群生、不知末代旨際、毀僧尼威儀。今時道俗、思量己分。
と、痛烈な逆批判をおこなわれたのは、この問題をついておられるのである。そして『末法灯明記』を引いて、末法における僧尼のありかたを明らかにし、破戒、無戒の故を以て末法の名字比丘を迫害するものは、仏身より血を出すに等しい逆罪であることを論証していかれたのであった。
第九、国土を乱る失
専修念仏の興隆によって、護国の仏教である八宗が衰退することは、国土の荒廃につらなり、王法の衰滅にいたるから、すみやかに専修念仏を停止せられたいというのである。br> 「仏法、王法猶し身心のごとし、互いにその安否を見、宜しくかの盛衰を知る」べきである。専修念仏が盛んになって来たから、王化が中興するというのならばいいのだが、事実は、専修の盛行によって三学は廃退し、八宗はまさに滅せんとしている。諸宗は念仏を信じて異心がないのに、専修は諸宗を嫌って同座せず、水火のように対立している。もし諸宗と念仏が水乳の如く和して、王化をたすけるならば、仏法王道ともに永遠に栄えるのであるが、専修は全く王化を助けようとせず、むしろ天下海内におこなわれている鎮護国家の仏事、法事を早く停止することを求めている。もしそうなってしまえば、仏事法事によって支えられている国土は乱れ、王法は衰退していくであろう。今日まだそうなっていないのは、「忝くもわが后の叡慮動くことなく明鑑の故」である。
若し後世、専修が隙を得て、君臣の心を離間させるような時がくれば、インドの弗沙密王や、唐の武宗のような廃仏の王が出現し、八宗を滅亡するようなことがないとも限らない。それは仏法の不幸だけでなく王道の破滅にもなる。そこで前代未聞の八宗同心の訴訟をおこし、聖断をあおぐわけである。
- 望請天裁、仰七道諸国、被糺改沙門源空専修念仏之宗義者、世尊付属之寄、弥和法水於舜海之浪、明王照臨之徳、永払魔雲於尭山之風矣、誠惶誠恐謹言。
と結んでいる。
ここに仏法と王法が安否盛衰を同じくするという、いわゆる律令体制と密着した旧仏教の理念と体質がはっきりと示されている。仏教は仏事、法事という鎮護国家の呪術を以て国家に奉仕することを使命としており、国家はそれゆえ仏教を庇護するわけである。ところが法然の開いた専修念仏の仏法は、大悲本願の念仏によって、生死の苦にあえぐ民衆の一人一人が、その苦悩より解脱していくことをめざす聞法者の集いであった。そして自身の生死出ずべき道を聞き開いたものは、同じ人生苦を背負っている同朋に、自身の信ずる念仏の大道を伝えていく伝道集団を形成していった。そこでは鎮護国家の修法は問題にならなかった。このような旧仏教の根幹をなす護国性を欠き、国家の要請を無視していく専修念仏集団の発展は、護国仏教の衰亡と、国土の荒廃をもたらすものと考えられた。ここに専修念仏者が弾圧をうけねばならない必然性があったし、親鸞が、国家権力に奉仕する仏教者を悲歎して、「この世の本寺本山のいみじき僧とまふすも、法師とまふすもうきことなり」(『述懐讃』・真聖全二・五二九頁)と述懐された所以でもあったのである。