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「聖徳太子の文を…」の版間の差分

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「聖徳太子廟窟偈」は、磯長の聖徳太子廟の立石に彫りつけてあったと伝えられる偈文。「廟窟偈」 「三骨一廟文」ともいふ。
 
;聖徳太子廟窟偈
 
;聖徳太子廟窟偈
 
:大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
 
:大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
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:過去七仏法輪處 大乗相応功徳地
 
:過去七仏法輪處 大乗相応功徳地
 
:一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
 
:一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
:印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師
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:印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師 (『浄土真宗聖典全書』上宮太子御記p1005)
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偈文の大意を、 千葉乗隆師は、
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:阿弥陀仏の慈悲は親が一人子を愛おしむように、全ての人々に降り注がれる。正しい仏法を興そうと、阿弥陀仏は西方浄土から日本の国に生まれた。
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:即ち太子の母は阿弥陀仏である。太子は救世観音、妻は勢至菩薩。弥陀、観音、勢至の三尊の形で現れても、元は一体である。日本での縁が尽きたので、西方浄土に帰ってゆくが、末世の人々を救うために、父母から受けた身体を、この磯長の廟屈に留め置く。この廟屈に参詣する者は、悪道を離れて極楽世界に生まれることができる。〔インドでは勝鬘夫人、晨旦では恵思禅師と称された。〕
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とされていた。<br />
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御開山がこの偈文の八句を抜き出した以下の文が金沢の専光寺に現存するという。
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:我身救世観世音 定慧契女大勢至
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:生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
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:為度末世諸有情 父母所生血肉身
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:遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
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「行者宿報偈」は結婚を示唆する偈文だが、法然門下の専修念仏に帰入する縁となった偈としては、この「廟窟偈」の方が親しいと思ふ。
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真偽未詳
 
  
『親鸞聖人正明伝』
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;『親鸞聖人正明伝』抜書き(真偽未詳)
  
 
 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、<br />
 
 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、<br />

2018年8月1日 (水) 11:50時点における版

しょうとくたいしのもん

 「聖徳太子廟窟偈」とする説と「親鸞夢記」の観音の夢告とする説がある。(恵信尼 P.811)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「聖徳太子廟窟偈」は、磯長の聖徳太子廟の立石に彫りつけてあったと伝えられる偈文。「廟窟偈」 「三骨一廟文」ともいふ。

聖徳太子廟窟偈
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身
片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土
為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪處 大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師 (『浄土真宗聖典全書』上宮太子御記p1005)

偈文の大意を、 千葉乗隆師は、

阿弥陀仏の慈悲は親が一人子を愛おしむように、全ての人々に降り注がれる。正しい仏法を興そうと、阿弥陀仏は西方浄土から日本の国に生まれた。
即ち太子の母は阿弥陀仏である。太子は救世観音、妻は勢至菩薩。弥陀、観音、勢至の三尊の形で現れても、元は一体である。日本での縁が尽きたので、西方浄土に帰ってゆくが、末世の人々を救うために、父母から受けた身体を、この磯長の廟屈に留め置く。この廟屈に参詣する者は、悪道を離れて極楽世界に生まれることができる。〔インドでは勝鬘夫人、晨旦では恵思禅師と称された。〕

とされていた。
御開山がこの偈文の八句を抜き出した以下の文が金沢の専光寺に現存するという。

我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位

「行者宿報偈」は結婚を示唆する偈文だが、法然門下の専修念仏に帰入する縁となった偈としては、この「廟窟偈」の方が親しいと思ふ。



『親鸞聖人正明伝』抜書き(真偽未詳)

 建久二年草亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申したまいしかば許されき。やがて、立越て西園院覚蓮僧都の坊に七旬ばかり、ましまして、因明の御学問あり。幸の序なりとて、九月十日あまりに、河内国機長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至るまで、三日三夜こもりて重々の御祈願あり。十四日の夜、親〈まのあたり〉に霊告まします。御自筆の記文に曰く、
 爰仏子範宴、思入胎五松之夢、常仰垂迹利生。今幸詣御廟窟、三日参籠懇念失己矣。

ここに仏子範宴、入胎五松の夢を思ふに常に垂迹の利生を仰ぐ。いま幸いに御廟窟に詣でて三日参籠の懇念に己を失す。

 第二夜四更如夢如幻。聖徳太子従廟内自発石扃、光明赫然而照於窟中。別三満月在現金赤之相。告勅言

二夜の四更に夢のごとく幻のごとく、聖徳太子廟内より自ら石扃をひらきて光明赫然として窟中を照らし、別して三の満月ありて金赤の相を現し、告勅してのたまわく。
我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳
命終即入清浄土 善信善信真菩薩
我が三尊は塵沙の界に化す、日域(日本)は大乗相応の地なり。
諦に聴け、諦に聴け、我が教令を、汝の命根は応に十余歳なるべし。
命終りて即に清浄土に入らん、善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。