「慮知」の版間の差分
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+ | :おほよそ心に三種あり一には質多心。此の方には慮知心と稱す。二には汗栗多心。此の方には稱す草木心と。三には矣栗多心。此の方には積聚精要心と稱す。 | ||
+ | :このなかに菩提心をおこすこと、かならす慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心を、すなはち菩提心とするにはあらず。この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。 | ||
+ | :菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。この心、もとよりあるにあらず。いまあらたに起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わか身のなかにあるにあらず、わか身の心のなかにあるにあらず。(原文:カタカナ) | ||
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2018年7月18日 (水) 14:01時点における版
りょち
思慮分別する心。(信巻 P.254)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ここでは『阿摩訶止観』を引いて、菩提心とは思慮分別する心であるとし凡夫の起こし得る菩提心であり、それは阿弥陀仏のご信心に拠って起こる願作仏心であるとされるのであろう。
なお、道元禅師はこの『阿摩訶止観』の語を引いて、
- 正法眼藏發菩提心
- おほよそ心に三種あり一には質多心。此の方には慮知心と稱す。二には汗栗多心。此の方には稱す草木心と。三には矣栗多心。此の方には積聚精要心と稱す。
- このなかに菩提心をおこすこと、かならす慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心を、すなはち菩提心とするにはあらず。この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。
- 菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。この心、もとよりあるにあらず。いまあらたに起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わか身のなかにあるにあらず、わか身の心のなかにあるにあらず。(原文:カタカナ)
とされていた。