「常楽我浄」の版間の差分
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常・楽・我・浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の[[四徳]]として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「[[極楽]]」と呼称してきた。なお『論註』では、 | 常・楽・我・浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の[[四徳]]として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「[[極楽]]」と呼称してきた。なお『論註』では、 | ||
− | : | + | :もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。([[浄土論註 (七祖)#P--144|論註 P.144]]) |
とあり、御開山は「信巻」菩提心釈([[信巻本#P--247|信巻 P.247]])でこの文を引文され「[[願作仏心]]・[[度衆生心]]」の浄土の菩提心を顕しておられる。 | とあり、御開山は「信巻」菩提心釈([[信巻本#P--247|信巻 P.247]])でこの文を引文され「[[願作仏心]]・[[度衆生心]]」の浄土の菩提心を顕しておられる。 | ||
2018年4月9日 (月) 07:34時点における版
じょうらくがじょう
常住にして移り変わりがなく、安らかで楽しみが充ち足り、自在で他に縛られず、煩悩のけがれがないこと。涅槃にそなわる四種の徳。→四徳(しとく) (真巻 P.354、化巻 P.408)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
常・楽・我・浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の四徳として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「極楽」と呼称してきた。なお『論註』では、
- もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。(論註 P.144)
とあり、御開山は「信巻」菩提心釈(信巻 P.247)でこの文を引文され「願作仏心・度衆生心」の浄土の菩提心を顕しておられる。
そもそも釈尊は四諦を説き、この世は無常、苦、無我、不浄であると説かれた。いわゆる四顛倒である。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我という仏教の旗印である。
この四顛倒を、浄土のさとりの徳をあらわす四徳として、
- 常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
- 楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦楽を離れたところに真の安楽がある
- 我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
- 浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
とあらわしたのが大乗の「如来常住 無有変易 常楽我浄。終不畢竟 入於涅槃。一切衆生 悉有仏性 (如来常住にして変易有ること無く、常、楽、我、浄なり。終に畢竟じて涅槃に入らず。一切衆生 悉く仏性有り)」(*) を説く『大般涅槃経』であった。
この涅槃(浄土)の徳に注目されたのが御開山であり、それが「真仏・真土巻」で展開される無為涅槃の界(さかい)である浄土である。
以下は「真仏真土巻」での御開山の『涅槃経』の引文。
なお→徳王菩薩品の「大我」は引文されておられない。