「空」の版間の差分
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2017年12月1日 (金) 02:30時点における版
くう
Ⅰ 空見。善悪因果の道理を空無とする邪見。 (行巻 P.172)
Ⅱ 梵語シューニャター(śūnyatā)の漢訳。もろもろの事物は、因縁(いんねん)に依って仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないことをいう。無自性と同意。
Ⅲ 梵語アーカーシャ(ākāśa)の漢訳。空間。虚空(こくう)のこと。五大の一。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- オンライン版 仏教辞典より転送
空
śūnya शून्य (S)、suñña सूञ्ञ (P)、舜若(しゅんにゃ)と音写。
固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。原語のシューニヤは、「…を欠いていること」という意味である。
インドの数学では、インド人が世界史上最初に発見したゼロを表す。このゼロという数により、たとえば十進法が可能となり、負数(マイナス)の概念も確立し、それはアラビアを通じて近代のヨーロッパに伝えられ、近代数学が誕生し、現代の自然科学や技術その他も開発され進展した。
このśūnyaは√śū(=śvā、śvi =膨張する)からつくられた śūna にもとづいて、空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろなどを意味し、初期の仏典にも登場する。
存在の諸要素に対しては、それが自体・本体をもたないこと、実体としての存在ではないこと、を意味する。実体というのは、他の助けを借りずに存在し得るもので、永遠・不変の存在ということである。ある存在が実体ではないということは、あたかも有るかのように仮に現れているにすぎないということであり、夢・幻のような存在だということである。
仏典の用例
- 自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ 『スッタニパータ(1119)』
- 空虚な家屋に入って心を鎮める 『法句経(373)』
欠如と残るものとの両者が、「空」の語の使用と重なり説かれる。これから「空」の観法という実践が導かれて、空三昧は無相三昧と無願三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門とも称する。
またこの用例は特に中期以降の大乗仏教において復活され、その主張を根拠づけた。
また(大空経)『中部122経、中阿含経(巻49)』は「空」の種々相、内空と外空と内外空との三空などを示す。さらに、空と縁起思想との関係を示唆する資料もある『相応部20-7、雑阿含経(1258経)』。部派仏教における「空」の用例も初期仏教とほぼ同じで、「空」が仏教の中心思想にまでは達していない。
大乗・小乗の相違点
特に、我(主体的存在)の空のみではなく、法(客観的存在)の空をも説いたことが、我の空しか説かなかった部派仏教とは、決定的に異なる点であった。「我空法有」に対する「我法倶空」、あるいは「人法二空」の立場こそ、大乗の世界観の核心である。
般若経の空
大乗(マハーヤーナ)の説が般若経で初めて説かれると、ここでは「空」が反復して主張された。それはこの経の批判の対象となった説一切有部が一種の固定した型に膠着化したことによる。ここでは「空」は厳しい否定を表し、いっさいの固定を排除し尽くす。
大乗経典のなかでも比較的はやい時期にスタートしたと思われる般若経は、新しい大乗的な菩薩の観念を発達させた。その担い手にはどちらかといえば出家者が多かったと思われるが、彼らは僧院を拠点とするアビダルマ仏教とは一線を画している。自ら無上の菩提に到達せんとする菩提心を起こし、また他者を菩提に導こうという利他の誓願を鎧のように身にまといながら、彼らはひと里離れた場所で、また行住坐臥つねに菩薩として行に励んだ。布施・戒・忍・精進・禅定・般若の六波羅蜜がその行の綱格をなし、これらのうち第六の般若波羅蜜、すなわち智慧の完全な状態は布施などを通じて得られる究極的なものであり、かつそれらの完全性を内から支えるものとして最も重視される。般若経はその立場から仏が語ったことを内容とし、同時に担い手たちにとっては般若波羅蜜に到達する方途を示す意味をもった。完全な智慧は日常的なあれやこれについての認識・知識とは異なる。通常の人間は「あれはこう」「これはこう」と区別し判断しては、それらに執着しているが、智慧はその執着を断つ力をもつとともにそれから解放された菩提、仏の悟りにほかならない。一連の多様な般若経のなかで諸法の不生不滅が説かれるのは、「ものが生じる」「ものが滅する」とする日常的な判断を破壊するためであり、また諸法の空性が説かれるのも、ものは日常的なことばが予想するような自性をもたないとして、ものへ
の執着を断つためである。「すべてのものは空である」と観じることは、ここで完全な智慧へ通じる方途とされており、原始仏教の無我観や「空性」の考えは深化されている。
また空性の分類も進み、たとえば『大品般若経』では、内空・外空・内外空(それぞれ、内的・外的なものの空性)、空空・大空・第一義空(究極的な空性)、有為空・無為空・畢竟空(作られたもの。作られないもの、その全体の空性)、無始空、散空(分析的な空性)、性空(本性的な空性)、自相空(特殊的なものの空性)、諸法空、不可得空(知覚できない意味での空性)、無法空・有法空・無法有法空(実体性・非実体性についての空性)といった十八空(異説あり)が説かれるようになる。
『八千頌般若経』第8章での、空――清浄――不二
束縛された(baddha)状態から解放された(mukta 解脱)状態へ、ということは仏教一般に共通する修行の過程である。説一切有部は物質的存在、感覚、表象、意欲、思惟という五蘊――無常なる有為の世界の諸要素であり、人間の身心の構成要素である五蘊は束縛され、汚れた(有漏)ものであると考えていた。五蘊は汚れと束縛を本体とした実在である。
学問と瞑想の修習によって、預流、一来、不還という聖者の階梯をよじ登り、阿羅漢という最高の位に達することは、五蘊の束縛から解放された状態にはいることであり、無為――いっさいの作為を超えた涅槃の世界にはいることである。
幻は本体をもたず、空なるものとしてある。有でもなく無でもないものとしてある。すべてのものは幻のように、空なるものとしてある。「般若経」はその空性を清浄と呼ぶ。また離脱(vivikta, viveka 遠雛)と呼ぶ。離脱とはすべてのものが本体を離れていることである。
- スブーティよ、すべてのものも本質的に離脱しているのである。スブーティよ、すべてのものの本質的な離脱性というもの、それが知恵の完成にほかならない。
束縛された人間も、修行の結果解放された人間も、迷いも悟りも、有為も無為も空であり、本来清浄であるならば、それら二つは区別されず、一つである。不二(advaya)である。この不二の空性という「ものの本性」(法性)を『般若経』が見出したことは、有部の区別の哲学、多元的実在論を批判する原理となった。『般若経』の世界では、すべてのものは、等しく空であることによって、不二であり、一元的であるからである。
龍樹の空観
この「空」の理論の大成は龍樹によって果たされた(『中論』など)。
龍樹は、あらゆる存在・運動・機能・要素その他、さらに、それぞれを表現する言葉そのものについて、各々がきわめて複雑多様な関係性(=縁起)の上に成立し、しかもその関係性は相互矛盾・否定をはらみつつ依存し合うことを明確に論じ、それは日常世界にまで及ぶ。
ここに諸要素などの実体視による自性(それ自身で存在する独立の実体)が完全に消滅し去り、その根拠と実態を「空」と押え、こうして縁起―無自性―空という系列が確立し、また言葉も一種の過渡的な仮として容認される。
- 衆因縁生の法は、我れ即ち是れを無(空)なりと説く。亦た是れを仮名と為す。亦た是れ中道の義なり。未だ嘗て一法として。因縁拠り生ぜざるもの有らず。是の故に一切法は、是れ空ならざる者なし 〔観四諦品第24 T30-33b〕
「śūnya」は形容詞であり、その名詞形の「śūnyatā शून्यता」は、空、空性、空であること、と訳される。
般若経自体は南インドに関係が深いが、龍樹はその担い手たちの一人であったと思われる。彼は般若経の智慧を重視する思想が釈尊自身の実践的な縁起と中道の思想を直接継承するものと考え、『中論』などの著作によって、すべてのものの空性をきわめて精緻な論理を使って明確にしようとした。その論法は鋭く、日常的なことばが意味のうえで予想しがちな実体性、自性を徹底して破壊するものとなっており、わずかでも実体的・有的なものを認める意見があればその立場を容赦なく批判した。つまり有的な傾向をもった当時のアビダルマ仏教も、他学派とともに激しい批判を受けるのである。
まず『中論』第1章第1偈は
- いかなる存在者であれ、それ自体から生じたものは決してなく、また他のものから、自と他との両者から、また原因なくして生じたものは決してない。
と述べる。原因と結果の関係を同一(自)、別異(他)、同一かつ別異(自他)、同一でも別異でもなく結果が原因をもたない(無因)という四つの場合に分類し、その想定をすべて否定している。タネから芽が出てくるのを例として、第一の場合を考えれば、「芽は芽と同じタネから生じる」というのは芽がタネと完全に同一ではないために論理的にはおかしいし、まんいち芽がタネと完全に同一だとすれば芽はすでに芽として存在しているはずであり、新たに芽が生じるとするのは無意味となる。原因のタネと結果の芽を同一と想定すれば、このような論理上の不合理が起こり、この想定はその正しさが否定されざるをえない。
ほかの場合についても同様であり、結果として「芽はタネから生じる」という判断は誤りと断定される。この断定はわれわれの日常的な経験と矛盾するようだが、実はそうではない。われわれは生き生きとした発芽現象を「タネ」「芽」「生じる」ということばで分断し、そのことば間の関係に心奪われ、発芽現象の成りゆき自体を直視しようとはしていない。ことばのほうが先行しているかぎり、発芽現象全体の成りゆきが真の意味で経験されているとは言いがたい。その意味で、ことばに頼りすぎるのは危ない、「タネ」「芽」「生じる」ということばはやめにして、すなわちそれぞれ空なもの、自性をもたないもの、無自性のものと見通したうえで、現象自体を全体との連関のなかでながめよ、というのが龍樹の言いたいところである。彼はことばが主役を演じがちなわれわれの経験・認識の問題を解決するために、ものは縁起しているから、すなわち原因条件をまってはじめて存在しえているから、無自性であると主張した。原始仏教・アビダルマ仏教で縁起は、十二支縁起に見られるように、ある一定のものの因果的連鎖に主点をおくものであったが、彼の縁起はもっと一般化されて、何であれものは原因条件、理由をまってはじめて存在し独自的存在性(我・自性)はもたないことが強調され、すべてのものの空性の根拠が縁起であるとされるにいたっている。『中論』第24章第18偈で彼は
- 縁起なるもの、それは空性(空)であるとわれわれはみなす。それは素因に依拠した認識のためのことば(仮)であり、それこそ中道(中)である。
と言う。ここではまず縁起=空性とし、そのうえで空性はことばが実体を指すのではなく意味に終始する虚構のものであることを述べ、さらに進んで、「これはAである」「これはAでない」とする肯定的判断と否定的判断を何についても下さない、固定的判断から完全に自由な中道、中の実践を強調している。論理的に展開される彼の空思想は、般若経ではそれほど重要な役割を演じなかったところの原始仏教以来の縁起・中道の思想を活性化し、「空」「空性」の概念により豊かな内容をもりこんだと言ってよい。「空」「空性」は、龍樹の場合、「AはAの自性の空なものである」ないし「Aは空である」と言われるにしても、それもあくまでことばのうえであり、AがAとして存在している事態を何ら傷つけるものではない。ことばとことばにもとづく執着から自由になって,Aが全体との関係でAとしてあることが、智慧の完全な状態に
おいてはそのまま把握されるであろう。
龍樹以後は、その空思想にもとづいて中観派が形成され、また空性を認識論的実践的に現実に即して解明することによって瑜伽行派が確立され、他学派とも接触しながら、論理学的な正確さと体系化を計っている。このなかで、空思想側の意図
とは異なるとはいえ、空性が虚無的と解されうる可能性がつねに問題とされていることは注意を要する。
中国仏教
般若経はかなり古く2世紀後半に支婁迦讖によってすでに漢訳されており、「空」「空性」の概念はそれを通じて中国に知られた。ところがこの概念を受容するにあたって、中国には老子・荘子による成熟した「無」の思想があり、これを前提として「空」「空性」は理解された。 5世紀にいたって鳩摩羅什は般若経や龍樹の『中論』を含めて大乗経典を漢訳し、大々的に紹介したが、サンスクリットを原語とする「空」「空性」の意味論的な側面は伝えることが困難で、「空」と「空性」は「空」の一字で統合さ
れ、その存在論的な面が「有」を根底から支える「無」「大虚」、空性を観じる般若波羅蜜の実践性は「無為」に通じる「道の意味あいを帯び、また『中論』の論理性は煩雑とさえ感じられる字句の解釈に道を譲った。
インドの論理的かつ分析的な空観は、いわば直観的・総合的な中国の感性に支えられながら、空観は独自の展開を見たと言ってよい。たとえば『中論』第24章第18偈で縁起=空性、空性・仮・中道というように用心深く列挙された概念は、後半に主点が移される。一切諸法は空・仮・中の観点から観察されるべきであり、観察の対象となるそのものについては空・仮・中それぞれのあり方が真実(諦)として一体となっている(三諦円融)とされ、インド仏教で緊張を保っていた個と全体の問題は、全体のなかで個々の区別は無意味となるという方向で融合され、相即的な論理を生みだしている。
この意味で中国的な無の思想を背景とする、たとえば禅の思想は、有の根底に無を見、それをバネとして有の世界にもどり、結果においてすべてを肯定する傾向にあると言ってよい。インドで虚無的と解されがちな空の思想が、中国では無の思想としてインドとは違った積極性をもったのである。