「幸西成覚房」の版間の差分
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(1163-1247)法然聖人の門弟。出家して比叡山の西塔南谷に住したが、三十六歳の時、弟子(または愛児ともいう)の死によって比叡山を離れ、法然聖人の門に入った。承元の法難で阿波(現在の徳島県)に流罪となり(『歎異抄』の流罪記録では慈円が身柄を預かるとする)、嘉禄の法難(1227)で再び流罪となった。 | (1163-1247)法然聖人の門弟。出家して比叡山の西塔南谷に住したが、三十六歳の時、弟子(または愛児ともいう)の死によって比叡山を離れ、法然聖人の門に入った。承元の法難で阿波(現在の徳島県)に流罪となり(『歎異抄』の流罪記録では慈円が身柄を預かるとする)、嘉禄の法難(1227)で再び流罪となった。 | ||
− | + | 一念義の代表的人物とされる。著書に『唐朝京師善導和尚類聚伝』『玄義分抄』(以上の二書は現存) | |
『略料簡』『一渧記』『称仏記』(以上の三書は凝念の浄土源流章に引文が残る)などがある。 | 『略料簡』『一渧記』『称仏記』(以上の三書は凝念の浄土源流章に引文が残る)などがある。 | ||
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2017年11月29日 (水) 12:13時点における版
こうさいじょうかくぼう
(1163-1247)法然聖人の門弟。出家して比叡山の西塔南谷に住したが、三十六歳の時、弟子(または愛児ともいう)の死によって比叡山を離れ、法然聖人の門に入った。承元の法難で阿波(現在の徳島県)に流罪となり(『歎異抄』の流罪記録では慈円が身柄を預かるとする)、嘉禄の法難(1227)で再び流罪となった。 一念義の代表的人物とされる。著書に『唐朝京師善導和尚類聚伝』『玄義分抄』(以上の二書は現存) 『略料簡』『一渧記』『称仏記』(以上の三書は凝念の浄土源流章に引文が残る)などがある。 。(歎異抄 P.855)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 『醍醐本法然上人伝記』によれば、勢観房源智上人は幸西成覚房から『選択集』を借りて書写したとある。→醍醐本法然上人伝記
外部リンク
- 幸西に付いて一段の記述がある。多念義の鎮西浄土宗からすれば幸西の一念義は批判すべきものであったので、法然聖人から破門されたなど悪意がある記述になっている。