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「釋迦牟尼仏」の版間の差分

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しゃかむにぶつ
 
しゃかむにぶつ
  
 梵名シャーキャ・ムニ・ブッダ(Śākya-muni-buddha)の音写。釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意で、釈迦族の聖者ということ。釈尊ともいう。
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 梵名シャーキャ・ムニ・ブッダ(Śākya-muni-buddha)の音写。釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意で、釈迦族の聖者ということ。<kana>釈尊(しゃくそん)</kana>ともいう。
  
仏教の開祖。約二千五百年前、中インドのカピラ城主[[浄飯王]](じょうぼんのう)を父とし、[[摩耶夫人]]を母として誕生された。二十九歳の時、道を求めて出家し、多くの師を歴訪されたが満足せず、[[尼連禅河]](にれんぜんが)のほとりの山林で六年間にわたり苦行された。
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仏教の開祖。約二千五百年前、中インドのカピラ城主<kana>[[浄飯王]](じょうぼんのう)</kana>を父とし、[[摩耶夫人]]を母として誕生された。二十九歳の時、道を求めて出家し、多くの師を歴訪されたが満足せず、<kana>[[尼連禅河]](にれんぜんが)</kana>のほとりの山林で六年間にわたり苦行された。
  
三十五歳のとき、後にブッダガヤー(Buddha-gayā)と呼ばれる地の[[菩提樹]]の下に座って瞑想し、ついにさとりを開かれた。
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三十五歳のとき、後にブッダガヤー(Buddha-gayā)と呼ばれる地の[[菩提樹]]の下に座って瞑想し、ついにさとりを開かれた。<br>
成道(じょうどう)後(ご)、[[梵天]](ぼんてん)の勧請(かんじょう)によって伝道を決意し、[[鹿野苑]](ろくやおん)(現在のヴァーラーナシー<ベナレス>郊外)に赴いて[[五比丘]](びく)に初めて説法(初転法輪)をした。
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<kana>成道(じょうどう)</kana><kana>後(ご)</kana><kana>[[梵天]](ぼんてん)</kana>の<kana>勧請(かんじょう)</kana>によって伝道を決意し、<kana>[[鹿野苑]](ろくやおん)</kana>(現在のヴァーラーナシー<ベナレス>郊外)に赴いて<kana>[[五比丘]](ごびく)</kana>に初めて説法(初転法輪)をした。
  
以後四十五年間各地を巡って多くの人々を教化(きょうけ)し、八十歳の時、クシナガラの[[沙羅樹]](さらじゅ)のもとに身を横たえて[[入滅]]された。
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以後四十五年間各地を巡って多くの人々を<kana>教化(きょうけ)</kana>し、八十歳の時、クシナガラの<kana>[[沙羅樹]](さらじゅ)</kana>のもとに身を横たえて[[入滅]]された。
  
 
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2017年11月12日 (日) 14:57時点における最新版

しゃかむにぶつ

 梵名シャーキャ・ムニ・ブッダ(Śākya-muni-buddha)の音写。釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意で、釈迦族の聖者ということ。釈尊(しゃくそん)ともいう。

仏教の開祖。約二千五百年前、中インドのカピラ城主浄飯王(じょうぼんのう)を父とし、摩耶夫人を母として誕生された。二十九歳の時、道を求めて出家し、多くの師を歴訪されたが満足せず、尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの山林で六年間にわたり苦行された。

三十五歳のとき、後にブッダガヤー(Buddha-gayā)と呼ばれる地の菩提樹の下に座って瞑想し、ついにさとりを開かれた。
成道(じょうどう)()梵天(ぼんてん)勧請(かんじょう)によって伝道を決意し、鹿野苑(ろくやおん)(現在のヴァーラーナシー<ベナレス>郊外)に赴いて五比丘(ごびく)に初めて説法(初転法輪)をした。

以後四十五年間各地を巡って多くの人々を教化(きょうけ)し、八十歳の時、クシナガラの沙羅樹(さらじゅ)のもとに身を横たえて入滅された。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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