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また、『愚禿鈔』には二河白道の譬喩によって、
 
また、『愚禿鈔』には二河白道の譬喩によって、
 
:「仰いで釈迦[[発遣]]して、<kana>指(おし)</kana>へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、'''順'''なり。「また弥陀の悲心[[招喚]]したまふによる」といふは、'''信'''なり。「いま二尊の<kana>意(おんこころ)</kana>に'''信順'''して、水火二河を顧みず、念々に<kana>遺(わす)</kana>るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。([[愚禿下#no83|愚禿下 P.539]])
 
:「仰いで釈迦[[発遣]]して、<kana>指(おし)</kana>へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、'''順'''なり。「また弥陀の悲心[[招喚]]したまふによる」といふは、'''信'''なり。「いま二尊の<kana>意(おんこころ)</kana>に'''信順'''して、水火二河を顧みず、念々に<kana>遺(わす)</kana>るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。([[愚禿下#no83|愚禿下 P.539]])
とあり、阿弥陀仏の直ちに来たれの[[招喚]]を信受することを「信」とし、釈尊の西方に向かへとの[[発遣]]に順うことを「順」とする。
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とあり、阿弥陀仏の直ちに来たれの[[招喚]]を[[信受]]することを「信」とし、釈尊の西方に向かへとの[[発遣]]に順うことを「順」とする。
  
  

2017年10月11日 (水) 13:54時点における版

しんじゅん

 教えを信受し随順すること。「信巻」別序に、

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。(信巻 P.209)

とある。
また、『愚禿鈔』には二河白道の譬喩によって、

「仰いで釈迦発遣して、(おし)へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、なり。「いま二尊の(おんこころ)信順して、水火二河を顧みず、念々に(わす)るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。(愚禿下 P.539)

とあり、阿弥陀仏の直ちに来たれの招喚信受することを「信」とし、釈尊の西方に向かへとの発遣に順うことを「順」とする。