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「無量光明土」の版間の差分

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至無量光明土 供養於無数仏。
 
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:すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
 
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:無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。
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:無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。 ([[真巻#no6|真巻 P.339]])
其奉事億万仏 飛変化遍諸国<br />
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恭敬已歓喜去 便還於須摩提
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:其れ億万の仏に奉事し 飛び変化して諸国に遍じ、
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:恭敬し已りて歓喜して去り 便ち須摩提に還る。 ([[真巻#no6|真巻 P.339]])
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このように訓(よ)むことによって、『平等覚経』の当面では無量の諸仏の土の意である無量光明土を、阿弥陀如来の安楽国土であると転じられた。仏教では光とは智慧の意であり、 阿弥陀の名義は無量光という智慧の光を本体とした仏であるとみられたから、あらゆる諸仏の浄土を統率する意で無量光明土とされたのであった。御開山はサンスクリットはご存知なかったのだが、梵語では阿弥陀仏をアミターバ(Amitābha―無量光)とする意と相応しているのであった。
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このように訓(よ)むことによって、『平等覚経』の当面では無量の諸仏の土の意である無量光明土を、阿弥陀如来の安楽国土であると転じられた。仏教では光とは[[智慧]]の意であり、阿弥陀の名義は無量光という智慧の光を本体とした仏であるとみられたから、あらゆる諸仏の浄土を統率する意で無量光明土とされたのであった。御開山はサンスクリットはご存知なかったのだが、梵語では[[阿弥陀仏]]をアミターバ(Amitābha―無量光)とする意と相応しているのであった。
  
 
『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釈され、
 
『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釈され、
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:「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。[[尊号真像銘文#P--652|(*)]]
 
:「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。[[尊号真像銘文#P--652|(*)]]
 
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と、無碍光-如来を「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれる、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる根源であり、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。そして、その智慧が慈悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという言葉であったのである。
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と、無碍光-如来を「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれる、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる根源であり、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。そして、その智慧が慈悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという言葉であったのである。「然斯行者 出於大悲願(しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり)」とされる所以である。
  
 
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2017年7月13日 (木) 16:27時点における版

むりょうこうみょうど

 阿弥陀仏の浄土のこと。はかりなき光明の世界。『平等覚経』に出る語で、元来は「無量の光明土」(諸仏土)の意であるが、親鸞聖人は阿弥陀仏の浄土に諸仏土がすべておさまるとし、「無量光明の土」(弥陀浄土)の意に転じている。→真実補註2 (行巻 P.145, 真巻 P.339, 浄文 P.487, 愚禿 P.514)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


『平等覚経』の原文。

亦念度一切人 令各願達十方
速疾超便可到 安楽国之世界。

また念へらく一切人を度し 各々願はくは十方に達せしめん。
すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。

至無量光明土 供養於無数仏。
其奉事億万仏 飛変化遍諸国
恭敬已歓喜去 便還於須摩提

〔無数の仏の〕無量の光明土に至りて、無数の仏を供養す。
其れ億万の仏に奉事し 飛び変化して諸国に遍じ、
恭敬し已りて歓喜して去り 便ち須摩提に還る。(平等覚経*)

御開山は、この『平等覚経』の文を「真仏土巻」で下記のように引文され無量光明土の意味を転じておられる。

速疾超便可到 安楽国之世界。
至無量光明土 供養於無数仏。

すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。 (真巻 P.339)

このように訓(よ)むことによって、『平等覚経』の当面では無量の諸仏の土の意である無量光明土を、阿弥陀如来の安楽国土であると転じられた。仏教では光とは智慧の意であり、阿弥陀の名義は無量光という智慧の光を本体とした仏であるとみられたから、あらゆる諸仏の浄土を統率する意で無量光明土とされたのであった。御開山はサンスクリットはご存知なかったのだが、梵語では阿弥陀仏をアミターバ(Amitābha―無量光)とする意と相応しているのであった。

『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釈され、

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。(*)

と、無碍光-如来を「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれる、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる根源であり、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。そして、その智慧が慈悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという言葉であったのである。「然斯行者 出於大悲願(しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり)」とされる所以である。