「宿善」の版間の差分
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− | + | 御開山には宿善という語は無い。宿善という語をお使いにならなかったのは真実とは何かの根拠を『論註』の「真実功徳釈」によられたからであろう。『論註』の「真実功徳釈」の真実功徳相([[浄土論註 (七祖)#P--56|論註 P.56]])には、凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽であるとし、法蔵菩薩の智慧清浄の業より起された菩提心(本願)こそが真実であるとされたからである。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったから宿善という言葉をお使いにならなかった。選択本願の法に遇えた慶びを語るには宿善ではなく宿縁という語を使われておられるのもその意である。<br /> | |
+ | 浄土真宗で「宿善」という言葉については[[Hwiki:『慕帰絵詞』第五巻_第一段_宿善の事|『慕帰絵詞』第五巻_第一段_宿善の事]]について詳しい。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を慕う伝記である。覚如上人は、以下に示す浄土宗鎮西派の派組である弁長の著した『浄土宗名目問答』で、御開山の提唱された全分他力説を論難し否定する、 | ||
+ | :自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。 | ||
+ | という、全分他力で自力の善根が全くなくでも浄土へ往生するというならば、一切の衆生は、みな浄土へ往生しているのではないか、という論難に対する為に、衆生の往生に遅速があるのは、宿善(前世・過去世につくった善根功徳)の厚薄によるのだと、宿善という名目を導入することによって、全分他力説(本願力回向)の間違いではないことを証明しようとされたのである。これには『慕帰絵詞』にあるように『無量寿経』の「若人無善本 不得聞此経(もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず)」([[大経下#P--46|大経 P.46]])という「若人無善本」という語が強い証左となったのであろう。<br /> | ||
+ | 本願力回向という、前人未到の境地を開かれた御開山の教説を合理的に把握しようという覚如上人の考察が、浄土真宗に「宿善」という名目を導入された意図であろう。もっとも、法然聖人、御開山聖人の示して下さった浄土真宗に於いては、口に〔なんまんだぶ〕と、称える以上の《善》はありえ無いのであった。何故なら阿弥陀仏が選択摂取して下さった往生成仏の行業が、口に称えられる〔なんまんだぶ〕であるからである。御開山は、信心の形而上学ともいえる信を顕す為に『教行証』という行から信を展開されたのであった。<br /> | ||
+ | その意味において、〔なんまんだぶ〕と称える「行」は信に先行するであり、これこそが御開山の意である宿善の当体であった。知愚の毒におかされた真宗坊主には窺い知ることもできない、愚鈍の林遊のような門徒の「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。 | ||
− | 浄土宗名目問答 | + | |
+ | ;浄土宗名目問答 弁長 [http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/10/page/409 浄土宗名目問答の抜粋] | ||
問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。 | 問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。 | ||
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:自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。 | :自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。 | ||
:また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。 | :また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。 | ||
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2017年6月7日 (水) 21:49時点における版
御開山には宿善という語は無い。宿善という語をお使いにならなかったのは真実とは何かの根拠を『論註』の「真実功徳釈」によられたからであろう。『論註』の「真実功徳釈」の真実功徳相(論註 P.56)には、凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽であるとし、法蔵菩薩の智慧清浄の業より起された菩提心(本願)こそが真実であるとされたからである。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったから宿善という言葉をお使いにならなかった。選択本願の法に遇えた慶びを語るには宿善ではなく宿縁という語を使われておられるのもその意である。
浄土真宗で「宿善」という言葉については『慕帰絵詞』第五巻_第一段_宿善の事について詳しい。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を慕う伝記である。覚如上人は、以下に示す浄土宗鎮西派の派組である弁長の著した『浄土宗名目問答』で、御開山の提唱された全分他力説を論難し否定する、
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。
という、全分他力で自力の善根が全くなくでも浄土へ往生するというならば、一切の衆生は、みな浄土へ往生しているのではないか、という論難に対する為に、衆生の往生に遅速があるのは、宿善(前世・過去世につくった善根功徳)の厚薄によるのだと、宿善という名目を導入することによって、全分他力説(本願力回向)の間違いではないことを証明しようとされたのである。これには『慕帰絵詞』にあるように『無量寿経』の「若人無善本 不得聞此経(もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず)」(大経 P.46)という「若人無善本」という語が強い証左となったのであろう。
本願力回向という、前人未到の境地を開かれた御開山の教説を合理的に把握しようという覚如上人の考察が、浄土真宗に「宿善」という名目を導入された意図であろう。もっとも、法然聖人、御開山聖人の示して下さった浄土真宗に於いては、口に〔なんまんだぶ〕と、称える以上の《善》はありえ無いのであった。何故なら阿弥陀仏が選択摂取して下さった往生成仏の行業が、口に称えられる〔なんまんだぶ〕であるからである。御開山は、信心の形而上学ともいえる信を顕す為に『教行証』という行から信を展開されたのであった。
その意味において、〔なんまんだぶ〕と称える「行」は信に先行するであり、これこそが御開山の意である宿善の当体であった。知愚の毒におかされた真宗坊主には窺い知ることもできない、愚鈍の林遊のような門徒の「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。
- 浄土宗名目問答 弁長 浄土宗名目問答の抜粋
問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。
- 問ふ。有る人の云く。數遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。
一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。
- 一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。
答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。
- 答ふ。この事、極たる僻ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。
云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。
- また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。