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「現代語 行巻」の版間の差分

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 <深く大いなる慈悲を行じる>とは、衆生を哀れむ思いが骨髄に徹するから<深く>といわれ、すべての衆生を救うためにさとりを求めるから<大いなる>といわれる。
 
 <深く大いなる慈悲を行じる>とは、衆生を哀れむ思いが骨髄に徹するから<深く>といわれ、すべての衆生を救うためにさとりを求めるから<大いなる>といわれる。
  
 慈悲の心とは、常に衆生を利益することを求めて、衆生を安穏にさせる心である。この慈悲に三修がある(以下略)」
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 慈悲の心とは、常に衆生を利益することを求めて、衆生を安穏にさせる心である。この慈悲に三種がある(以下略)」
  
 
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 『浄土論』に<尽十方無碍光如来に帰命したてまつる>とある。<帰命>は五念門の中の礼拝門であり、<尽十方無碍光如来>は讃嘆門である。
 
 『浄土論』に<尽十方無碍光如来に帰命したてまつる>とある。<帰命>は五念門の中の礼拝門であり、<尽十方無碍光如来>は讃嘆門である。
  
 どうして<帰命>が礼拝であると知ることができるのであろうか。まず、龍樹菩薩のつくられた阿弥陀如来をたたえる偈の中に、あるいは<稽首礼>といい、あるいは<我帰命>といい、あるいは<帰命礼>といわれている。また、この『浄土論』の後半にある論述の文の中にも、<五念門の行を修める>といわれているが、五念門の中で、礼拝門はその一つであり、天親菩薩は、すでに往生を願っておられるのであるから、礼拝されないはずはない。だから帰命は礼拝であると知ることができる。ところが、礼拝はただ尊敬することであって、必ずしも帰命とは限らない。しかし、帰命には必ず礼拝を伴う。もし、こういう意味から推しはかるなら、帰命の方がその意義が重い。そこで、『浄土論』の願生偈の方では、まず天親菩薩ご自身の領解を述べられるのであるから、帰命というべきであり、後の論述の文では、願生偈の意味を解釈するのであるから、拾い意味で礼拝とされたのである。願生偈と論述の文とが互いに対応して、より一層その意味が明らかとなる。
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 どうして<帰命>が礼拝であると知ることができるのであろうか。まず、龍樹菩薩のつくられた阿弥陀如来をたたえる偈の中に、あるいは<稽首礼>といい、あるいは<我帰命>といい、あるいは<帰命礼>といわれている。また、この『浄土論』の後半にある論述の文の中にも、<五念門の行を修める>といわれているが、五念門の中で、礼拝門はその一つであり、天親菩薩は、すでに往生を願っておられるのであるから、礼拝されないはずはない。だから帰命は礼拝であると知ることができる。ところが、礼拝はただ尊敬することであって、必ずしも帰命とは限らない。しかし、帰命には必ず礼拝を伴う。もし、こういう意味から推しはかるなら、帰命の方がその意義が重い。そこで、『浄土論』の願生偈の方では、まず天親菩薩ご自身の領解を述べられるのであるから、帰命というべきであり、後の論述の文では、願生偈の意味を解釈するのであるから、広い意味で礼拝とされたのである。願生偈と論述の文とが互いに対応して、より一層その意味が明らかとなる。
  
 
 どうして<尽十方無碍光如来>が讃嘆門になるのかというと、後半の論述の文の中に、<どのようにほめたたえるのかというと、この如来の名号を称えるのである。そしてこの如来の光明という智慧の相にかない、また阿弥陀仏の名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである>といわれている。(中略)天親菩薩は、ここで<尽十方無碍光如来>といわれている。すなわちこれは、この如来の名号によって、智慧の相である光明のいわれにかなってほめたたえるからである。だから、この一句は讃嘆門であると知られる。
 
 どうして<尽十方無碍光如来>が讃嘆門になるのかというと、後半の論述の文の中に、<どのようにほめたたえるのかというと、この如来の名号を称えるのである。そしてこの如来の光明という智慧の相にかない、また阿弥陀仏の名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである>といわれている。(中略)天親菩薩は、ここで<尽十方無碍光如来>といわれている。すなわちこれは、この如来の名号によって、智慧の相である光明のいわれにかなってほめたたえるからである。だから、この一句は讃嘆門であると知られる。
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 <経>とは、十二部経の中で、仏がただ教えそのものを説かれているものをいう。四阿含などの教え以外の大乗の経典も、また経というのである。ここで<経に依る>といわれている経は、大乗の経典であって、阿含経などの経典ではない。
 
 <経>とは、十二部経の中で、仏がただ教えそのものを説かれているものをいう。四阿含などの教え以外の大乗の経典も、また経というのである。ここで<経に依る>といわれている経は、大乗の経典であって、阿含経などの経典ではない。
  
 <真実功徳の相>というのは、功徳には二種類があり、一つには、煩悩に染れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。
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 <真実功徳の相>というのは、功徳には二種類があり、一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。
  
 
 <願生偈を説いて総持し、仏の教えに相応する>というのは、<持>とはたもって散失しないことをいい、<総>とは少ない言葉で多くをおさめることをいう。(中略)<仏の教えに相応する>とは、たとえば箱とふたとがびたりと合うようなものである。(中略)
 
 <願生偈を説いて総持し、仏の教えに相応する>というのは、<持>とはたもって散失しないことをいい、<総>とは少ない言葉で多くをおさめることをいう。(中略)<仏の教えに相応する>とは、たとえば箱とふたとがびたりと合うようなものである。(中略)
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(27) また次のようにいわれている(往生礼讃)。
 
(27) また次のようにいわれている(往生礼讃)。
  
 「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遭って、阿弥陀仏の本願に誓われたお名号を聞くことができた。一心に称えて往生を願うがよい。願は仏のお慈悲であり、仏はその本願の誓いを決してお捨てになることはないから、仏弟子であるわたしたちを摂め取ってくださるのである」
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 「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遭って、阿弥陀仏の本願に誓われた名号を聞くことができた。一心に称えて往生を願うがよい。願は仏のお慈悲であり、仏はその本願の誓いを決してお捨てになることはないから、仏弟子であるわたしたちを摂め取ってくださるのである」
  
 
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2011年7月14日 (木) 02:50時点における版

出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
このページは、聖典と一体化してこそ意味があるので転載禁止です。


御自釈

(1)

 つつしんで、往相の回向をうかがうと、往生の因として大行と大信が与えられています。
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。
 ところでこの行は、大悲の願(第17願)より出てきた本願力回向の行です。すなわち、この願を諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づけ、諸仏咨嗟の願と名づけられます。また往相回向の願と名づけることもできますし、また選択称名の願とも名づけることもできます。

(2) 諸仏称名の願(第十七願)は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」

(3) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい。人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝を与えよう。常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう」

(4) 第十七願成就文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる」

(5) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる」

(6) また次のように説かれている(無量寿経)。

 「その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往生し、おのずから不退転の位に至る」

(7) 『如来会』に説かれている。

 「わたしは今、仏の前で弘誓をおこした。これを満たして必ずこの上ないさとりを得よう。もしこれらの願いが満たされなかったなら、十力をそなえたこの上なく尊い仏とはなるまい。普通の行に堪えられないものに施し与え、功徳のないものを広く救ってさまざまな苦を離れさせ、世の人々に利益を与えて安楽にさせよう。(中略)

 もっともすぐれた勇気あるものとして、修行を成しとげて、功徳のない人々のために無量の宝をおさめた蔵となろう。そして善をまどかにそなえ、他に並ぶもののない仏となり、大衆の中にあって高らかに法を説こう」

(8) また次のように説かれている(如来会)。

 「阿難よ、無量寿仏にはこのようなすぐれたはたらきがあるから、はかり知ることのできないあらゆる世界の数限りない仏がたが、みなともに無量寿仏の功徳をほめたたえておられるのである」

(9) 『大阿弥陀経』に説かれている。

 「わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。わたしは、この願いを成就して仏となろう。もしこの願いが成就しなかったなら、決して仏にはなるまい」

(10) 『平等覚経』に説かれている。

 「無量清浄仏は、<わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞えさせ、それぞれの仏がたに、弟子たちの中で、わたしの功徳や浄土の善さをほめたたえさせよう。そして、神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて喜びに満ちあふれるものをみなことごとく、わたしの浄土に往生させよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われ、また、<わたしが仏になったときには、他方の国の人々が、前の世で悪を縁としてわたしの名号を聞いたものも、まさしく道を求めてわたしの国に生まれようと思ったものも、寿命が終ればみなふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界にかえることなく、願いのままにわたしの国に生れさせよう。もし、そのようにできなかったなら、わたしは仏になるまい>と願われた。

 阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、この無量清浄仏の二十四願を聞いて、身にも心にも大いに喜び、ともに心の中で<わたしたちも無量清浄仏のような仏になりたい>と願った。

 釈尊はこれをお知りになって、多くの比丘たちに、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、今後長い年月を経て、みな無量清浄仏のような仏となるであろう>と仰せになった。

 さらに、<この阿闍世王の太子や五百人の長者の子たちは、すでに菩薩の道を修めて以来、はかり知れない年月の間に、みなそれぞれ四百億の仏を供養しおわり、今またここに来てわたしを供養している。この阿闍世王の太子や五百人の子たちは、みな前の世に迦葉仏が世に出られた時に、わたしの弟子になっていた。その因縁で今またここに会うことができたのである>と仰せになった。

 集まっていた多くの比丘たちはこのお言葉を聞いて、心から喜ばないものはなかった。(中略)

 釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、«わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである»とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。限りない光明の世界に至って、無数の仏を供養しよう。過去にこのような功徳を積んでいない人は、この経の名を聞くことができない。ただ清らかに戒律をたもった人だけが、この本願の教えを聞くことができる。邪悪なもの、おごり高ぶるもの、誤った考えを持つもの、おこたりなまけるものは、この教えを信じることが難しい。かこの世で仏を見たてまつった人は、よろこんで仏の教えを聞くであろう。人として生れることはまれであり、仏が世におられても、会うことは難しい。信心の智慧を得ることはさらに困難である。もし仏法に出会えたなら勤め励んで道を求めよ。この法を聞いて忘れず、信を得て敬い大いによろこぶものは、すなわちわたしの善き親友である。だからさとりを求める心をおこすがよい。たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった」

(11) 『悲華経』に説かれている。

 「わたしがこの上ないさとりを開いたとき、数限りない国々のあらゆる人々が、わたしの名号を聞いて念仏し、わたしの浄土に往生したいと思うなら、彼らが命終って後、かならず往生させよう。ただし、五逆罪を犯し、聖者を謗り、正しい法を破るものは除かれる」


(12)

 こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。


(13) 『十住毘婆娑論』にいわれている(入初地品・地相品)。

 「ある人の説には、<般舟三昧と大いなる慈悲を仏がたの家と名づける。この二法から多くの仏がたが生れるからである>といわれる。この中では、般舟三昧を父とし、大いなる慈悲を母としている。また次に、<般舟三昧は父で無生法忍は母である>ともいわれる。

 『菩提資糧論』の中に、<般舟三昧は父、大いなる慈悲と無生法忍は母であり、すべての仏がたはこの父母から生れる>と説かれている通りである。

 家にあやまちがなければ、家は清浄なのである。だから、清浄とは、六波羅蜜の行と四功徳処であり、方便と智慧を善慧というのであって、般舟三昧と大いなる慈悲と諸忍、これらの法は、みな清浄であって、あやまちがないのである。だから、仏がたの家が清浄といわれるのである。初地の菩薩は、このような清浄の法を家としているから、あやまちがないのである。

 それは、世間の道を転じて出世間の上道に入るものである。世間の道とは凡夫の行じる道である。転じるとは、その道を進むのをやめることをいう。凡夫の道は、どのように努めても、結局のところ、さとりに至ることはできない。いつまでも迷いの世界をさまようから、これを凡夫の道というのである。出世間とは、この世間の道をもとにして迷いの世界を離れることができるから、それを出世間の道というのである。上とは、この道がすぐれた道であるから、上というのである。入るというのは、まさしくその道を修行するから入るというのである。この心で初地の位に入るのを歓喜地というのである。

 問うていう。初地をなぜ歓喜地というのであろうか。

 答えていう。声聞が初果を得たなら、遂には必ず涅槃に至ることができるように、菩薩がこの初地の位に至ると、心に常に歓喜が多く、おのずから仏となる種を育てることができる。だから、このような人を賢善のものというのである。

 ここで<初果を得るように>というのは、声聞が須陀果を得るようであるというのである。この位に入ると、地獄や餓鬼や畜生の世界におもむく門戸をかたく閉じて、四諦の法を見、その法をさとり、その法を体得し、堅固な法に安住して心が動揺することなく、ついに涅槃に至ることができる。道理に迷う煩悩を断ち切ってしまうのであるから、心は大いに歓喜する。そして、たとえおこたりなまけるようなことがあっても、二十九回も迷いの生を繰り返すことはない。

 たとえば、一すじの毛を百に分け、その一分の毛を大海に浸して水を分け取るようなものである。すでに消滅した苦は、その二、三滴のようであって、なお消滅せずに残っている苦は、大海の水ほどである。わずか二、三滴ほどの苦を消滅したにすぎないけれども、ふたたび迷うことのない位につくのであるから、心は大きな歓喜に満たされる。

 菩薩もまたそのようである。初地の位に至ったことを、仏がたの家に生れたという。そして、すべての仏法を守護する神々・竜・夜叉・乾闥婆などや、声聞・縁覚などに、みな一様に供養されあつく敬われるのである。なぜなら、この仏がたの家にはあやまりがないからである。だから世間の凡夫の道を転じて、出世間のさとりの道に入るというのである。ただ、仏をよろこび敬うだけで、四功徳処や六波羅蜜などの果報を得て、その尊い味わいを愛楽し、多くの仏となるさまざまな因を相続するから、心に大きな歓喜を得るのである。この菩薩の徳からいえば、残っている苦は二、三滴の水ほどである。たとえば百千億劫もの長い間かかってこの上ないさとりを得るとしても、はかり知れない昔からの苦にくらべれば、それは二、三滴ほどの苦を残しているにすぎない。滅すべき苦は、大海の水ほどもあるが、その徳からいえば、二、三滴の苦を残しているにすぎないのであるから、この位を歓喜地というのである。

 問うていう。初歓喜地の菩薩は、この位にあって、歓喜が多いという。多くの功徳を得て歓喜するから、これを位の名とするのである。菩薩は法を歓喜するのであるが、どのような法を得て歓喜するのであろうか。

 答えていう。常に仏がたを念じ仏がたの大いなる法を念じることは、必定の位に入る希有の行である。だから、歓喜が多いのである。このような歓喜すべきいわれがあるから、菩薩は初地の位において心に歓喜が多いのである。

 ここで<仏がたを念じる>というのは、燃灯仏などの過去の仏がた、阿弥陀仏などの現在の仏がた、また弥勒などの将来の仏がたを念じることである。常にこのような過去・現在・未来の仏がたを念じれば、現に行者の前におられるようにお護りくださる。仏はすべての世界においてもっともすぐれた方であり、これにまさる方はおられない。だから、歓喜が多いのである。

 次に<仏がたの大いなる法を念じる>について、仏がただけがそなえておられる四十の尊い特について、そのいくつかを述べてみよう。一つには、自由自在に飛行する徳である。二つには、自由自在にすがたを変える徳である。三つには、自由自在に声を聞き分ける徳である。四つには、自由自在に無量の智慧をもってすべての衆生の心を知る徳である。(中略)

 次に<念必定の菩薩がた>とは、もし菩薩がこの上ないさとりを得ることを仏から約束されたなら、その菩薩は不退転の位に至って無生法忍を得るのであり、たとえ千万億の悪魔の軍勢が押し寄せても、決して心を乱されることがなく、大いなる慈悲の心を得てさとりを成就するのである。(中略)これを念必定の菩薩という。

 <希有の行を念じる>とは、必定の菩薩が、たぐいまれなもっともすぐれた行である本願の名号を念じるのである。これによって心が大いに歓喜する。あらゆる凡夫の及ばないところであり、すべての声聞・縁覚の行じることのできないところである。それは、仏法の何ものにもさまたげられないさとりとすべてを知る智慧を開示するのである。また、十地の菩薩の行じるところの法を念じるのであるから、心に歓喜が多いといわれるのである。そこで、菩薩が初地の位に入ることができたなら、そのものを歓喜地の菩薩というのである。

 問うていう。凡夫の身で、この上ないさとりを求める心をおこさないものや、あるいは、その心をおこしてもまだ歓喜地を得ていないものがある。このような人も、その大いなる法を念じ、必定の菩薩および希有の行を念じるなら、また歓喜を得るであろう。初地の位に至った菩薩の歓喜とこの人の歓喜とは、どのような違いがあるのであろうか。

 答えていう。初地の位に至った菩薩は、その心に歓喜が多い。それは仏がたのはかり知れない徳を自分も必ず得られると思うからである。

 初地の位に至った必定の菩薩が仏がたを念じたなら、仏がたのはかり知れない功徳を自分も必ず得るに違いないと思う。なぜなら、自分はすでに初地の位に至り、かならず成仏することに定まった菩薩の仲間に入っているからである。初地の位に入っていないものにはこういう心がない。だから、初地の菩薩は多くの歓喜を生じるのである。初地の位に入っていないものはそうではない。なぜなら、それらのものは、仏がたを念じても、自分も必ず仏になることができるという思いをおこすことができないからである。

 たとえば、転輪聖王の王子は、転輪聖王の家に生れて、転輪聖王となるべき相をそなえており、過去の転輪聖王の功徳の尊いことを念じて、自分にもまたこの相があるから、やがてまた、この豊かで尊い身となることができると思い、心が大いに歓喜するであろう。しかし、転輪聖王となるべき相がないものには、そのような喜びがおこらないようなものである。いま必定の菩薩が、仏がたを念じ、またその大いなる功徳や尊いおすがたを念じれば、自分にもこの相があるから必ずやがて成仏するに違いないと思って、大いに歓喜するであろうが、他のものにはそのようなことがない。

 必定の心とは、深く仏法を体得して、何ものにも動揺しない堅固な信心のことである」

(14) また次のようにいわれている(浄地品)。

 「信のはたらきの増上とは、どういうことであろうか。聞かせていただき、知らせていただいた法を確かに受け入れて疑わないのを信のはたらきの増上といい、殊勝というのである。

 問うていう。増上には、多いという意味で説かれる場合と、すぐれているという意味で説かれる場合があるが、ここでは、どちらの意味で説かれたのであろうか。

 答えていう。両方の意味が説かれるのである。菩薩が初地の位に入れば、多くの功徳を味わうことができるから信のはたらきがより一層増すのであり、また、この信のはたらきで仏がたの功徳が無量で深くすぐれていることを思いはかって、それを信受することができるのである。だから、信には、多いという意味の増上の徳も、すぐれているという意味の増上の徳も、どちらもあるのである。

 <深く大いなる慈悲を行じる>とは、衆生を哀れむ思いが骨髄に徹するから<深く>といわれ、すべての衆生を救うためにさとりを求めるから<大いなる>といわれる。

 慈悲の心とは、常に衆生を利益することを求めて、衆生を安穏にさせる心である。この慈悲に三種がある(以下略)」

(15) また次のようにいわれている(易行品)。

 「仏法には、はかり知れない多くの教えがある。たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励むものもいれば、他力信心の易行で速やかに不退転の位に至るものもある。(中略)もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。

 もし菩薩がこの一生のうちに不退転の位に至り、ついにこの上ないさとりを成就しようと思うなら、すべての世界の仏がたを信じて、その名号を称えるがよい。このように名号を称えることは、『宝月童子所問経』の阿惟越致品の中に説かれている通りである。(中略)西方にある善世界の仏を無量明仏と申しあげる。その身にそなわる智慧の光明は明らかであり、その照らされるところは広くどこまでも限りない。その名号を聞いて信じるものは、ただちに不退転の位に至ることができる。(中略)はかり知ることのできない遠い過去の世に海徳という仏がおられた。現在の仏がたはみな、この仏のもとで願いをおこされたのである。その仏の寿命は限りなく長く、光明は限りなく照らし、その国土はこの上なく清浄である。その名号を聞くものは必ず仏となるであろう。(中略)

 問うていう。ただこの十仏の名号を聞いて信じるものは、ついにこの上ないさとりに至る位を得ることができるが、他の仏・菩薩の名号によっても、同じように不退転の位に至ることができるのであろうか。

 答えていう。阿弥陀仏などの仏がたや多くの菩薩たちの名号を称えて一心に念じれば、同じように、また不退転の位を得ることができる。阿弥陀仏などの仏がたを、あつく敬い礼拝して、その名号を称えるがよい。

 今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。だから、常に阿弥陀仏を念じるがよい。そこで、今偈をもって阿弥陀仏をほめたたえよう。

 はかり知れない智慧の光明に輝くお体は、まるで黄金の山のようである。わたしは今、体と言葉と心をもって合掌し礼拝したてまつる。(中略)この仏の名号がそなえるはかり知れない徳のはたらきを信じる人は、ただちに不退転の位に至ることができる。だからわたしは常にこの仏の名号を念じたてまつる。(中略)もし人が仏になろうと願って、阿弥陀仏を念じれば、そのとき阿弥陀仏はその人の前に現れてくださる。だからわたしは阿弥陀仏の本願のはたらきを信じたてまつる。すべての世界の多くの菩薩たちも、ともに来て阿弥陀仏を供養し尊い法を聞く。だからわたしは阿弥陀仏を礼拝したてまつるのである。(中略)もし善根を積んで生れようとするのであれば、それは疑いの心であるから、その身を包んでいる花が開かない。他力回向の清浄な信心を得ているものは、花が開いて仏を見たてまつるのである。すべての世界に現在おいでになる仏がたは、さまざまな因縁を示して、阿弥陀仏の功徳をたたえておいでになる。だからわたしは今、阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。(中略)八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださるから、わたしは自在のはたらきをそなえた阿弥陀仏を礼拝したてまつる。多くの仏がたが、はかり知れないほどの長い年月をかけて、阿弥陀仏の功徳をほめたたえても、その功徳をほめ尽すことはできない。だから清浄の徳をそなえた阿弥陀仏を信じたてまつる。わたしも、今仏がたがほめたたえるように、阿弥陀仏のはかり知れない徳をほめたてまつる。この讃嘆の功徳をもって、仏が常にわたしを護念してくださることを願う」

(16) 『浄土論』にいわれている。

 「わたしは大乗の経典に説かれている真実の功徳をそなえた名号の相により、この願生偈を説き、阿弥陀仏の本願のはたらきを示して、仏の教えにかなうことができた。阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださるのである。

(17) また次のようにいわれている(浄土論)。

 「法蔵菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四種の門において、自利の行を成就されたと、知るべきである。そして、第五の回向門において、衆生に功徳を施される利他の行を成就されたと、知るべきである。菩薩は、このように五念門の行を修めて自利利他を行じ、速やかにこの上ないさとりを成就されたのである」

(18) 『往生論註』にいわれている。

 「つつしんで、龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』をうかがうと、<菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。

 難行道とは、五濁の世、また仏がおられない世において、不退転の位を求めることを難行というのである。難行である理由は多いが、略して、少しばかりあげて意味を明らかにしよう。一つには、かたちにとらわれた外道の善が菩薩の法を乱す。二つには、声聞が自利のみを求めて菩薩の大慈悲を行うことをさまたげる。三つには、人の迷惑を考えない悪人が他の人の修行を邪魔する。四つには、迷いの中の善果である人間や神々に生れることに執着して仏道の行を損なう。五つには、ただ自力のみであって他力のささえがない。このようなことは、みな眼前の事実である。これをたとえていえば、陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。

 易行道とは、ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生れ、仏にささえられて、ただちに大乗の正定聚に入ることができることをいう。正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである>といわれている。いまこの『無量寿経優婆提舎願生偈』に示された法は、大乗の中の極致であり、不退転の位に向かって順風を得た船のようなものである。

 <無量寿>とは、浄土の如来の別名である。釈尊は、王舎城や舎衛国において、大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな荘厳功徳をお説きになった。そこで、その荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって浄土三部経の本質とするのである。後代の聖者天親菩薩が、釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、経にしたがって願生偈をつくられたのである」

(19) また次のようにいわれている(往生論註)。

 「また衆生救済の願いは、軽々しいことではない。如来の尊い力がなければ、どうしてこれを達成することができよう。そこで、仏力をお加えくださることを乞うのである。このようなわけで仰いで世尊に告げられるのである。<わたしは一心に>とは、天親菩薩ご自身が述べられた領解のお言葉である。その意味は、無礙光如来を念じて浄土への往生を願い、その心が変らずに続いて、少しも自力の心がまじらないということである。(中略)

 『浄土論』に<尽十方無碍光如来に帰命したてまつる>とある。<帰命>は五念門の中の礼拝門であり、<尽十方無碍光如来>は讃嘆門である。

 どうして<帰命>が礼拝であると知ることができるのであろうか。まず、龍樹菩薩のつくられた阿弥陀如来をたたえる偈の中に、あるいは<稽首礼>といい、あるいは<我帰命>といい、あるいは<帰命礼>といわれている。また、この『浄土論』の後半にある論述の文の中にも、<五念門の行を修める>といわれているが、五念門の中で、礼拝門はその一つであり、天親菩薩は、すでに往生を願っておられるのであるから、礼拝されないはずはない。だから帰命は礼拝であると知ることができる。ところが、礼拝はただ尊敬することであって、必ずしも帰命とは限らない。しかし、帰命には必ず礼拝を伴う。もし、こういう意味から推しはかるなら、帰命の方がその意義が重い。そこで、『浄土論』の願生偈の方では、まず天親菩薩ご自身の領解を述べられるのであるから、帰命というべきであり、後の論述の文では、願生偈の意味を解釈するのであるから、広い意味で礼拝とされたのである。願生偈と論述の文とが互いに対応して、より一層その意味が明らかとなる。

 どうして<尽十方無碍光如来>が讃嘆門になるのかというと、後半の論述の文の中に、<どのようにほめたたえるのかというと、この如来の名号を称えるのである。そしてこの如来の光明という智慧の相にかない、また阿弥陀仏の名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである>といわれている。(中略)天親菩薩は、ここで<尽十方無碍光如来>といわれている。すなわちこれは、この如来の名号によって、智慧の相である光明のいわれにかなってほめたたえるからである。だから、この一句は讃嘆門であると知られる。

 <安楽国に生れようと願う>とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命のおこころである。(中略)

 問うていう。大乗の経典や論書の中には処々に<衆生は究極のところ無生であって虚空のようである>と説かれている。それなのにどうして、天親菩薩は<生れようと願う>といわれているのであろうか。

 答えていう。<衆生は無生で虚空のようである>と説くのには、二つの意味がある。一つには、凡夫が思っている実体としての衆生や、凡夫が考えている実体としての生死のように、凡夫が実体と思い、考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない。それは、亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、実体がなく、虚空のようだということである。二つには、あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体として生じるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。いま天親菩薩が<生れようと願う>といわれるのは、因縁によって生じるのであるから仮に<生れる>というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生れたり死んだりするということではない。

 問うていう。どういう意味で往生と説くのか。

 答えていう。この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、前後は因果相続する。この世界の仮に人と名づけられるものと、浄土の仮に人と名づけられるものとは、まったく同じであるということも、まったく異なっているということもできない。往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。なぜかといえば、もしまったく同じであるなら、因果の別がないことになり、また、まったく異なっているなら、相続していないことになる。天親菩薩が往生ということを説かれているのは、この不一不異の道理に立つものである。この道理は論の中に詳しく述べられている。

 以上で、偈の第一行の三念門を解釈しおわった。(中略)

 『浄土論』に、<わたしは、経に説かれている真実功徳の相に依って、願生偈を説いて総持し、仏の教えに相応するのである>といわれている。(中略)その<依って>といわれるのは、何に依るのであろうか、なぜ依るのであろうか、どのように依るのであろうか。何に依るのかといえば、経に依るのである。なぜ依るのかといえば、如来は真実功徳の相だからである。どのように依るのかといえば、五念門を修めて仏の教えに相応するように依るのである。(中略)

 <経>とは、十二部経の中で、仏がただ教えそのものを説かれているものをいう。四阿含などの教え以外の大乗の経典も、また経というのである。ここで<経に依る>といわれている経は、大乗の経典であって、阿含経などの経典ではない。

 <真実功徳の相>というのは、功徳には二種類があり、一つには、煩悩に汚れた心によって修めた、真如にかなっていない功徳である。いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。二つには、菩薩の法性に順じる清らかな行からおこって、仏の果報を成就する功徳である。これは、法性にしたがい清浄の相にかなっている。この法は真如にそむいているのでもなく、いつわりでもないから、真実功徳というのである。なぜ真如にそむいていないのかというと、法性にしたがい二諦の道理にかなっているからである。なぜいつわりでないのかというと、衆生を摂め取ってこの上ないさとりに入らせるからである。

 <願生偈を説いて総持し、仏の教えに相応する>というのは、<持>とはたもって散失しないことをいい、<総>とは少ない言葉で多くをおさめることをいう。(中略)<仏の教えに相応する>とは、たとえば箱とふたとがびたりと合うようなものである。(中略)

 『浄土論』に<回向してくださるとはどういうことであろうか。仏は苦しみ悩むすべての衆生を捨てることができず、いつも衆生に功徳を施そうと願われ、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである>と述べられている。阿弥陀仏の回向に二種の相がある。一つには往相、二つには還相である。往相というのは、仏ご自身の功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに浄土に往生させてくださることである」

(20) 『安楽集』にいわれている。

 「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、«仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか»とお尋ねした。

 世尊は父の王に、«仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです»と仰せになった。

 父の王は世尊に、«念仏の功徳はどのようなものでしょうか»とお尋ねになった。

 世尊は父の王に、«たとえば、四十由旬四方の伊蘭の林の中に一本の牛頭栴檀があるとします。栴檀の根や芽はあっても、まだ土の中にあるうちは、伊蘭の林はただいやな臭いがするだけで、よい香りなど少しもありません。もし、伊蘭の花や実を食べたなら、その毒のために発狂して死んでしまうほどです。その後、栴檀の芽が次第に成長して、少しばかり樹木らしく見えるようになると、かぐわしい香りを放ち、遂には伊蘭の林のいやな臭いをすべてよい香りに変えてしまいます。そして、その林を見る人々は、みなたぐいまれなすぐれた思いをおこします»と仰せになった。

 世尊は、続けて父の王に、«あらゆる人々が迷いのうちにあって念仏する心も、このようなものです。念仏の行をたもち続けることができたなら、必ず阿弥陀仏のもとに生れることができるのです。ひとたび往生することができたなら、すべての悪をあらためて大いなる慈悲の心を生じさせてくださることは、栴檀が伊蘭の林のいやな臭いを変えてしまうようなものです»と仰せになった>と説かれている。

 ここでいわれている<伊蘭の林>とは、三毒や三障などの、衆生が持っている数限りない重い罪にたとえたものであり、<栴檀>とは、衆生の念仏の心にたとえたものである。<少しばかり樹木らしく見えるようになる>とは、どのような人も絶えることなく念仏したなら、往生の業因が成就することをいうのである。

 問うていう。一人の念仏の功徳を推しはかれば、あらゆる人々についても同様であると識ることができる。しかしどうして、一本の栴檀の樹が四十由旬四方の伊蘭の林をかぐわしい香りに変えてしまうように、一声の念仏の功徳によって、すべての罪障を断つことができるのであろうか。

 答えていう。さまざまな大乗の経典によって、念仏三昧の功徳が思いはかることのできないすぐれたものであることを明らかにしよう。

 どのようにすぐれているかというと、『華厳経』に、<たとえば、人が獅子の筋で琴の弦をつくり、これをひとたび奏でたなら、その他のものでつくった弦はみな切れてしまうというようなものである。もし人が菩提心をもって念仏三昧を修めたなら、すべての煩悩、すべての罪のさわりは、ことごとく断たれ滅するのである。また、人が牛や羊やロバなどの乳をしぼって器の中に入れ、そこへ、獅子の乳を一滴入れたなら、さっとまざりあって、それらの乳がことごとく破壊され、清らかな水に変ってしまうというようなものである。もし人がただ菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪魔や障害もさまたげることができないのである>と説かれている通りである。

 また同じ経には、<たとえば、人が体をみえなくする薬を用いてさまざまなところを歩きまわっても、他の人々は、この人を見ることができないようなものである。もし菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪神やさわりも、この人を見ることができず、どこへ行ってもさまたげられることはない。なぜかというと、この念仏三昧はすべての三昧の中の王だからである>と説かれている」

(21) また次のようにいわれている。

 「『大智度論』の中に、<他のさまざまな三昧も三昧でないというわけではない。なぜかというと、三昧の中には、貪欲だけを除いて、瞋恚や愚痴を除くことができない三昧もある。また、瞋恚だけを除いて、愚痴や貪欲を除くことができない三昧もある。また、愚痴だけを除いて、貪欲や瞋恚を除くことができない三昧もある。あるいはまた、現在の罪障だけを除いて、過去と未来のすべてのさわりを除くことのできない三昧もある。ところが、もし常に念仏三昧を修めたなら、現在・過去・未来を問わず、すべてのさわりがことごとく除かれるのである>と説かれている通りである」

(22) また次のようにいわれている(安楽集)。

 「『讃阿弥陀仏偈』に、<もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる>とある」

(23) また次のようにいわれている(安楽集)。

 「また、『目連所問経』に<世尊は目連に、«たとえば、長い川の流れに漂う草木は、前のものが後のものを気にかけることもなく、後のものが前のものを気にかけることもなく、すべて大海に流れこむようなものである。世間のありさまもその通りで、身分が高く豊かで何不自由ないものでも、すべてのものはみな生老病死の苦を免れることはできない。どのようなものでも、仏法を信じなかったなら、後の世に人間に生まれても、さらに苦しみがきわまることになり、千の仏が出られる尊い国に生れることはできない。そこで、わたしは“無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。逆に、九十五種の外道に仕えている”と説くのである。わたしはこういう人を、真実を見る目がない人といい、真実を聞く耳がない人という»と仰せになった>と説かれている通りである。

 経典にはすでにこのように説かれている。どうして、難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」

(24) 善導大師が『往生礼讃』にいわれている。

 「また、『文殊般若経』に、<一行三昧を明かそうと思う。ただ、独り静かなところにいて、さまざまな心の乱れをとどめて心を一仏にかけ、おすがたを観ずるのではなく、もっぱら名号を称えることを勧める。そうすれば、その念仏の中において、阿弥陀仏をはじめすべての仏がたを見たてまつることができるのである>と説かれている通りである。

 問うていう。どうして仏のおすがたを観ずるのではなく、ただもっぱら名号を称えるようにお勧めになるのか、これにはどのような意味があるのか。

 答えていう。それは、衆生はさわりが重く、観ずる対象が細やかであるのに、心は粗雑であり、思いが乱れ飛んで、仏のおすがたを観じようとしても成就することができないからである。そこで、釈尊はこれをお哀れみになって、ただもっぱら名号を称えることをお勧めになるのである。称名は行じやすいので、相続して往生することができるのである。

 問うていう。すでに仏のお勧めにより、もっぱらただ一仏の名号を称えるのに、なぜ、多くの仏が現れるのか。これは、よこしまな観法と正しい観法とがまじわって、一仏と多仏とがまじって現れるのではないだろうか。

 答えていう。仏がたはみな同じさとりを開いておられ、また姿かたちにも区別はない。だから、一仏を念じた結果、多くの仏がたを見たてまつることになっても、どのような道理にも決して背くはずがない。また、『観無量寿経』に説かれている通りである。仏は観察や礼拝や念仏などを行じることをお勧めになる。その際には、みな西方浄土に向かうのがもっともすぐれているのである。それはちょうど、樹が倒れる場合には、必ずその樹の傾いている方向に倒れるようなものである。だから、事情があって、どうしても西方浄土に向かうことができない場合には、ただ西方浄土に向かう思いを持つだけでもよい。それでも同じ結果を得ることができる。

 問うていう。すべての仏がたは法身・報身・応身のさとりの身を得られ、慈悲と智慧とをまどかにそなえておられることにはまったく違いがないはずである。とすると、その方角の一仏を礼拝し、憶念し、念仏しても、また往生することができるであろう。なぜ、ただひとえに西方浄土のみをほめたたえて、もっぱら弥陀一仏への礼拝や憶念などをお勧めになるのか。どういうわけがあるのであろうか。

 答えていう。仏がたのさとりそのものは平等で一つであるけれども、もし、その因位の願・行をもって考えてみると、それぞれの因縁の違いがないわけではない。ところで、阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のときに深重の誓願をおこされ、これを成就して、光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られるのである。わたしたちはただ信じるばかりで、長い生涯念仏を相続するものから、短命にして十声・一声の念仏しかできないものに至るまで、すべて仏の願力によって、たやすく往生することができる。そこで、釈尊および仏がたは、西方浄土に向かうことをお勧めになるのであり、これを特別の違いとするだけである。これはまた、他の仏がたの名号を称えても罪のさわりを滅することができないというのではないということを、よく知るべきである。もし上に述べたように、命終るまで念仏を相続するものは、十人であれば十人すべて、百人であれば百人すべて、みな往生することができる。なぜなら、外からのさまざまなさまたげがなく、他力の信心を得るからであり、阿弥陀仏の本願にかなうからであり、釈尊の教えに違(たが)わないからであり、仏がたの言葉にしたがうからである」

(25) また次のようにいわれている(往生礼讃)。

 「ただ、念仏する衆生をご覧になり、摂め取って決してお捨てにならないので、阿弥陀と申しあげるのである」

(26) また次のようにいわれている(往生礼讃)。

 「阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。末法一万年の後、他の教えがすべて滅しても、この法だけはいつまでもとどまるであろう。そのとき、この法を聞いて信を得、わずか一声念仏するものまで、みな阿弥陀仏の国に往生することができるのでる」

(27) また次のようにいわれている(往生礼讃)。

 「わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遭って、阿弥陀仏の本願に誓われた名号を聞くことができた。一心に称えて往生を願うがよい。願は仏のお慈悲であり、仏はその本願の誓いを決してお捨てになることはないから、仏弟子であるわたしたちを摂め取ってくださるのである」

(28) また次のようにいわれている(往生礼讃)。

 「問うていう。阿弥陀仏の名号を称え、あるいは礼拝・観察すれば、この世においてどのような功徳や利益があるのであろうか。

 答えていう。もし阿弥陀仏の名号を一声称えるなら、八十億劫の迷いのもととなる重い罪が除かれる。礼拝や憶念などもまた同様である。

 『十往生経』には、<もし衆生が、阿弥陀仏を念じて往生を願えば、阿弥陀仏は二十五菩薩を遣わして行者を護られ、歩いていても、座っていても、立っていても、臥していても、昼であろうが、夜であろうが、すべての時、すべてのところにおいて、悪鬼・悪神につけ入るすきを与えないのである>と説かれている。

 また、『観無量寿経』に、<もし阿弥陀仏の名号を称え、礼拝・憶念して、その国に往生しようと願えば、阿弥陀仏はすぐさま無数の化身の仏や、無数の観音・勢至の化身を遣わして行者を護ってくださる。また前の二十五菩薩などとともに、行者を百重千重に取りかこんで、何をしていても、どのような時、どのようなところでも、昼夜を問わず、常に行者からお離れになることはない>と説かれている通りである。

 今すでにこのすぐれた利益があるのであるから、阿弥陀仏の本願を信じるがよい。願わくは多くの行者よ、それぞれにみな仏の真実のお心をいただいて往生を求めよ。

 また『無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願には、<わたしが仏になったとき、すべての世界の衆生が、わたしの名号を称え、それがわずか十声ほどのものであってもみな往生させよう。もしそうでなければわたしはさとりを開くまい>と誓われている通りである。

 阿弥陀仏は今現に成仏しておられる。だから、深重の誓願は間違いなく成就されており、衆生が念仏すれば、必ず往生できると知るべきである。

 また『阿弥陀経』に、<世尊は、«衆生が、阿弥陀仏について説かれるのを聞いたなら、本願を信じて名号を称えるがよい。あるいは一日でも二日でも、あるいは七日に至っても、一心に思いを乱さず仏の名号を称えるなら、命終ろうとするとき、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともに、その人の前に現れてくださる。そこでその人は、臨終に心を取り乱すことなく、阿弥陀仏の国に往生することができる»と仰せになる。さらに、世尊は舎利弗に、«わたしは、このような利益のあることを知っているから、このことを説くのである。もし衆生の中でこの法を聞くものがあれば、信をおこして阿弥陀仏の国に生れようと願うがよい»と仰せになった>と説かれ、その後、<東・南・西・北および上・下のそれぞれにおられる数限りない仏がたは、それぞれの国で広く舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、«そなたたち世の人々よ、この“阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経”を信じるがよい»と仰せになっている。どうして«お護りくださる»というのであるのか。衆生が、あるいは七日あるいは一日、あるいは十声・一声に至るまで、阿弥陀仏の名号を称えるなら、必ず往生することができる。このことを証明してくださるから«お護りくださる経»というのである>と仰せになり、さらに、その下の文に、<仏の名号を称えて往生するものは、常にすべての世界の数限りない仏がたに護られるから«お護りくださる経»というのである>と仰せになっている通りである。

 今すでにこのすぐれた誓願があるのだから、これを信じるべきである。多くの仏弟子たちよ、どうして懸命に往生を願わないのか」

(29) 『観経疏』にいわれている(玄義分)。

 「弘願というのは『無量寿経』に説かれている通りである。善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきに乗じる(乗の字は、かごにのるという駕の意味であり、自力にまさるという勝の意味であり、舟にのるという登の意味であり、仏に守られているという守の意味であり、おおわれ護られるという覆の意味である)のであり、これをもっともすぐれたはたらきとしないものはない」

(30) また次のようにいわれている(玄義分)。

 「南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである」

(31) また『観念法門』にいわれている。

 「摂生増上縁というのは、『無量寿経』の四十八願の中に、<阿弥陀仏が、«わたしが仏になったとき、すべての世界の衆生が、わたしの国に生れようと思って、名号を称えること、わずか十声のものに至るまで、わたしの本願のはたらきに乗じて往生することがなかったなら、わたしは決してさとりを開くまい»と仰せになっている>と説かれている通りである。これは、往生を願う人を本願のはたらきの中に摂め取り、命終るときには往生を得させてくださるということなのである。だから摂生増上縁というのである。

(32) また次のようにいわれている(観念法門)。

 「善人も悪人もすべての凡夫に、自力の心をひるがえして念仏の行を修めさせ、ことごとく往生を得させたいと思われて、仏がたがこの法を証明してくださっている。これが証生増上縁である」

(33) また『般舟讃』にいわれている。

 「法門は八万四千の多数に分れるが、迷いの因果を滅する鋭い剣は弥陀の名号にほかならない。わずか一声、その名号を称えるところに罪はみな除かれるのである。多くの悪い行いも凡夫のはからいもすべて滅し、教えないのにおのずからさとりの門に入ることができる。果てしなく続く娑婆世界の苦難を免れることは、とりわけ釈尊のお導きのご恩を受けてできることである。仏のさまざまなはからいや、巧みな手だてにより、とくに阿弥陀仏の本願の門に入らせてくださるのである。


(34)

 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説と熟語した場合、説は「悦」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。
 また帰説と熟語した場合、説は「税」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。
 説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
 こういうわけですから「命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
 「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
 「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。
「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


(35) 『五会法事讃』にいわれている。

 「そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。(中略)さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。(中略)

 この上ないすぐれた真実のさとりは、まことに尊く、一如そのものであって、衆生を教え導き、利益するのである。しかし、それぞれ誓願が異なるから、釈尊は煩悩に染れたこの世にお生まれになり、阿弥陀仏は浄土に出現されるのである。出現されたところはそれぞれ別であるが、その利益には変るところがない。修めやすくさとりやすいのは、まことに浄土の教えである。西方浄土はことにすぐれており、ほかにくらべられるものがない。また百もの宝でできた蓮の花でうるわしく飾られている。その蓮の花の開いた中に、あらゆる人々を往生させてくださるのである。これが仏の名号のはたらきである。(中略)

 『称讃浄土教』によって法照のつくった偈。

 <如来の尊い名号は、きわめてすぐれて明らかであり、すべての世界に広く行きわたり、衆生に念仏させてくださる。衆生はただその名号を称えて念仏するだけで往生する身に定まり、観音菩薩と勢至菩薩は自らその人のもとに来って、お護りくださるのである。阿弥陀仏の本願はことにすぐれており、慈悲の心から巧みな手だてにより凡夫を摂め取ってくださる。すべての衆生はみな迷いを離れることができ、その名号を称えればただちに罪を除くことができる。凡夫がもし西方浄土に往くことができれば、長い間の数知れない罪はすべて消える。六つの神通力をそなえて、自在のはたらきを得、永久に老いや病の苦は除かれて、無常を離れることができる>

 『仏本行経』によって法照のつくった偈。

 <どのようなものを正しい法というのか。道理にかなっているなら、それは真実の教えである。今この時に、よい教えなのか悪い教えなのかを定めなければならないのである。一つ一つ細かい点も吟味して曖昧にしてはならない。正しい法は迷いの世を超え離れることができる。持戒や座禅も正しい法というけれども、念仏して成仏する、これこそが真実の教えなのである。仏の教えによらないものは外道という。因果の道理を信じない考えは意味のないものである。正しい法は迷いの世を超え離れることができるのである。座禅や持戒がどうして正しい法なのであろうか。念仏三昧こそが真実の教えである。浄土に往生して仏性をあらわし、仏となる。まことに道理にかなった法ではないか>

 『阿弥陀経』によってつくった偈。

 <西方浄土はさとりに向かって進むことが娑婆世界よりすぐれている。人々の欲望をかきたてるものもなく、悪魔のさまたげもないからである。そのため、仏となるのに苦労を重ねてさまざまな功徳を積む必要もなく、ただ、蓮の花の台座に座り、弥陀を念じたてまつるのである。煩悩に汚れた世で修行すれば、さとりの道から退転することが多い。だから、念仏して西方浄土に往生することほど、すぐれたことはない。浄土に至れば本願のはたらきにより自然にさとりを成就するのである。そして迷いの世界に還ってきて、衆生をさとりの世界へ導くための橋となるであろう。あらゆる行の中で念仏がもっとも大切である。速やかにさとることができるのは、浄土の教えよりすぐれたものはない。ただ釈尊が説かれているだけではない。すべての世界の仏がたもともに広く念仏の教えを伝え、それが真実であることを証明しておられる。この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土に一つの蓮の花が生じる。生涯、信心を失うことなく念仏を相続するなら、その蓮の花がこの世界に来ってその人を迎えてくださるのである>

 『般舟三昧経』によって慈愍和尚のつくった偈。

 <今日道場に集まった多くの人々よ、わたしたちはみな、はかり知れない昔から迷いの世界をさまよってきた。今、人として生れたことを考えると、それは実に得がたいことである。このことは、たとえば、優曇華がはじめて咲くようなものである。今まさに、聞きがたい浄土の教えを聞く縁に会うことができた。今まさに、念仏の教えが説き開かれるときに会うことができた。今まさに、阿弥陀仏の本願がお喚びになる声にあうことができた。今まさに、人々が信を得て往生を願うのにあうことができた。今まさに、今日この経によって阿弥陀仏をたたえるのにあうことができた。今まさに、人々がともに蓮の台座に往生することを約束するのにあうことができた。今まさに、病もなく一同がここに来るのにあうことができた。今まさに、この七日間の念仏の功徳が成就するのにあうことができた。阿弥陀仏の四十八願は、このわたしを必ず浄土に連れていってくださる。広くすべての道場に集まった念仏の行者に勧める。つとめて心をひるがえし、わたしたちのふるさとに帰ろうではないか。それでは、そのふるさととはどこにあるのだろう。それは極楽の池の中に咲く、七宝でできた蓮の花の台座にほかならない。阿弥陀仏は因位のとき、弘誓をおたてになった。«名号を聞いて、わたしを念じるものをすべて迎えとろう»と。貧しいものと富めるものをわけへだてることなく、知識や才能の高下によってわけへだてることなく、博学多聞のものも清らかな戒律をたもつものもわけへだてることなく、戒律を破ったものも罪深いものもわけへだてることなく、ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。今ここに集まった大衆に«同じ念仏の縁を結び迷いの世界を離れて浄土に往生しようと願うものは、はやく求めて往くように»と告げる。問う、求めてどこへ往くのか。答える、阿弥陀仏の浄土へ往くのである。問う、どうして阿弥陀仏の浄土に往生することができるのか。答える、新人を得て念仏すれば、本願のはたらきによっておのずと往生できるのである。問う、今この身は多くの罪やさわりがあるのに、どうして浄土に受け入れてもらえるのか。答える、名号を称えればそれらの罪はみな消えるのである。たとえば明るい灯火が闇の中に入るようなものである。問う、凡夫でも往生できるのであろうか。どうして信を得てひとたび念仏すれば、闇が明るくなるようにすべての罪が消えるのか。答える、疑いを離れて念仏すれば、阿弥陀仏の方から間違いなく親しみ近づいてくださるのである>

 『観無量寿経』によって法照のつくった偈。

 <十悪や五逆の罪をつくるようなどうしようもなくおろかな人は、はかり知れない長い間迷いの世界に沈んでいる。しかし、信心を得てひとたび阿弥陀仏の名号を称えたなら、浄土に往生して、仏と同じさとりの身が得られるのである>

(36) 憬興が『術文讃』にいっている。

 「釈尊の広く説かれた『無量寿経』は二つの内容に分れる。はじめの方では、阿弥陀仏となられ、その浄土がととのえられることの因果について、すなわち因位の願・行と果の成就のありさまを、広くお説きになるのである。後の方では、衆生が浄土に往生することの因果について、すなわち阿弥陀仏が衆生を摂め取り、利益をお与えになるありさまを、広くお明かしになるのである」

(37) また次のようにいっている。

 「『悲華経』の諸菩薩本授記品には、<そのとき、宝蔵如来が後に阿弥陀仏となられる転輪聖王をほめたたえて、«何と善いことであろうか、(中略)大王よ、あなたが西方を見ると、ここから百千万億の仏の世界を過ぎたところに尊善無垢という世界がある。その世界に仏がおられ、尊音如来と申しあげる。(中略)今現に多くの菩薩がたのために正しい法を説いておられる。(中略)それはまじりけのない純一な大乗の清浄な世界である。その世界の人々はみな平等に清浄な生れ方をして、男女の区別がなく、区別する名前さえもない。その世界のあらゆる功徳は、実に清らかにうるわしくととのえられている。これはすべて大王の願いの通りで、何の相違もないであろう。(中略)そこで今あなたの名をあらためて、無量清浄としよう»と仰せになる>と説かれている。

 『如来会』には、<このような大いなる誓願をおこし、そのすべてを成就したのである。これは世にすぐれてたぐいまれなことである。この願いをおこしおわって、真実の心をもってさまざまな功徳を身にそなえ、すぐれた徳にあふれた清らかな世界をうるわしくととのえられたのである>と説かれている」

(38) また次のようにいっている(述文賛)。

 「福徳と智慧との二つの徳を成就されたから、それらの徳をすべておさめて、等しく衆生に念仏の行を施されるのである。仏は自分の修めた行の徳をもって他の衆生を利益されるのであるから、念仏の行を施して衆生の上にすべての功徳を成就されるのである」

(39) また次のようにいっている(述文賛)。

 「はかり知れない昔からの因縁によって、仏に出会い、法を聞いてよろこぶことができるのである」

(40) また次のようにいっている(述文賛)。

 「浄土の人々はみな尊い聖者であり、その国土は実にすぐれている。往生のために努めようとしないものなど、だれかいるのであろうか。善を行じて往生を願え。如来の善によって往生の因果すでに成就されているので、おのずから果を得ることができないはずがない。だから自然という。貴賎のわけへだてをせず、みな往生させてくださる。だから、上下の差別がないというのである」

(41) また次のようにいっている(述文賛)。

 「『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず往く人がまれである。しかしその国には、間違いなく本願のはたらきのままにすべての人々が受け入れられる>と説かれている。因を修めれば往生し、修めなければ往生できない。因を修めて往生することは、本願のはたらきのまま、そうなるのである。すなわち往きやすいのである」

(42) また次のようにいっている(述文賛)。

 「<本願力の故に>とあるのは、わたしたちが往生するのは阿弥陀仏の本願のはたらきによるということである。<満足願の故に>とあるのは、衆生を救う願いが欠けることなく成就されているということである。<明了願の故に>とあるのは、阿弥陀仏の願い求められることには決して間違いがないということである。<堅固願の故に>とあるのは、本願はどのような縁にも破られることがないということである。<究竟願の故に>とあるのは、阿弥陀仏の願いは必ず果しとげられるといことである」

(43) また次のようにいっている(述文賛)。

 「総じていえば、愚かな凡夫に浄土往生を願う心を盛んにさせるために、阿弥陀仏の浄土のすぐれていることをあらわされているのである」

(44) また次のようにいっている(述文賛)。

 「すでに<この娑婆世界で菩薩の行を修められた>と説かれている。これによって、後に阿弥陀仏となられた無諍念王が、この娑婆世界におられたことが知られる。後に釈尊となられた宝海梵志もまた同様である」

(45) また次のようにいっている(述文賛)。

 「仏のすぐれた功徳が広大であることを聞いたから、不退転の位を得たのである」

(46) 『楽邦文類』にいっている。

 「総官の職にあった張掄がいう。<仏の名号ははなはだたもちやすく、浄土ははなはだ往きやすい。八万四千の法門の中で、これ以上の近道はない。明け方のわずかな時間をさいても、ぜひ、永久に損なわれることのない功徳をたくわえるべきである。仏の名号をたもつのは、力を用いることがはなはだ少なくて、功徳を得ることがはかり知れない。人々は何の苦しみがあって、自らこのような尊い法を捨ててしまい、修めようとしないのであろうか。ああ、人生は夢幻のようであり、真実のものは何一つない。寿命ははかなくて、長くたもつことができない。わずか一呼吸ほどの間にすぐ来世となる。ひとたび人としての命を失えば、もはや一万劫を経てももとにはかえらない。今この時目覚めなかったなら、仏にも、わたしたち衆生をどうすることもできない。どうか、深く無常を思って、いたずらに悔いを残すようなことはしないでほしい。浄楽居士張掄、縁のある人々に勧める>

(47) 天台宗の祖師、山陰がいっている。

 「まことに、仏の名号は真実の報身よりあらわれ、と疎い慈悲よりあらわれ、広大な誓願よりあらわれ、すぐれた智慧よりあらわれ、はかり知れない法門よりあらわれているから、ただもっぱら一仏の名号を称える中に、仏がたの名号をすべて称える徳が収まっている。その功徳ははかり知れないから、罪やさわりを滅し、浄土に生れることができる。どうして疑いをおこす余地があろうか」

(48) 律宗の祖師、元照が『観経義疏』にいっている。

 「まして、釈尊は大いなる慈悲のお心から浄土の法をお説きになり、また広くさまざまな大乗経典の中に示されたお勧めも、実に行き届いたものである。ところが、世間の人は、これを見たり聞いたりしてもただ疑い謗って、迷いの世界に沈むことに満足し、さとりを求めようとしない。如来はまさにこの哀れむべきもののために浄土の法をお説きになったのであるが、まことに、世の人々がこの法を疑い謗るのは、普通とは異なる尊い法であることを知らないからである。賢者と愚者、出家と在家をわけへだてることなく、修行の年時の長短を論ぜず、罪の軽い重いを問わず、ただ決定の信心をもって往生の因とされるのである」

(49) また次のようにいっている(観経義疏)。

 「いま浄土の経典には、どれにも悪魔のさまたげのことは説かれていない。だから浄土の法には悪魔のさまたげがないことは明らかである。山陰の慶文法師の<正信法門>にはこのことが詳しく論じられている。いまその問答をそのまま引用しよう。

 <ある人が、«臨終に仏・菩薩が光明を放って、蓮の花の台座を持って現れるのを見たてまつり、清らかな音楽が鳴り響き、すぐれた香りが漂って、来迎にあずかって往生する、というようなことは、みな悪魔のしわざである»という。この説はどうであろうか。

 答えていう。『首楞厳経』によって三昧を修める場合には、五陰魔が現れ、修行をさまたげることがある。『大乗起信論』によって三昧を修める場合には、天魔が現れ、修行をさまたげることがある。『摩訶止観』によって三昧を修める場合には、時媚鬼が現れ、修行をさまたげることがある。これらはどれも、禅定を修める人が自力によるから、元来悪魔のさまたげを受けるような因があり、それが三昧を修めることを縁として現れ出たものである。もし、これを明らかに見きわめて、それぞれが制するなら、悪魔のさまたげを除くことができる。もし、自らが聖者になったと思いあがるなら、みな悪魔のさまたげを受けるのである。(以上はこの世界でさとりを開こうとする場合を明かした。これには悪魔のさまたげがおこる)

 いま修めるところの念仏三昧は仏力をたのむのである。それはちょうど、帝王の近くにいるとだれも害を加えるものがないように、悪魔のさまたげがない。これはつまり、阿弥陀仏が、大いなる三昧の力、自在に救う大いなる力、邪悪を砕く大いなる力、悪魔を降伏させる大いなる力、遠く未来を見通す天眼通の力、遠くの声を聞き分ける天耳通の力、すべてのものの心を知りぬく他心通の力、光明をあまねく照らして衆生を摂め取る力、それらの力をそなえておられることによる。このようなはかり知れない功徳の力をそなえておられるのである。念仏の人を護って臨終までさまたげのないようにすることが、どうしてできないことがあろうか。もし仏が行者をお護りくださらないのなら、慈悲の力があるといえようか。もし仏が悪魔のさまたげを除くことができないのなら、智慧の力、三昧の力、自在に救うことのできる力、邪悪を砕く力、悪魔を降伏させる力なども、またあるといえようか。もし仏がすべてを見抜くことができずに、行者が悪魔のさまたげを受けるようなら、天眼通の力、天耳通の力、他心通の力なども、またあるといえようか。『観無量寿経』には、«阿弥陀仏の光明は、すべての世界を照らし、念仏の衆生を摂め取ってお捨てにならない»と説かれている。もし、念仏して臨終に悪魔のさまたげを受けるというなら、光明をあまねく照らして衆生を摂め取る力も、またあるといえようか。まして、念仏の人が臨終にすぐれた相を見ることは、多くの経に出ている。これらはみな仏のお言葉である。どうして、それを悪魔のしわざであるとけなすことができよう。今誤った疑いをはっきりと打ち破った。まさに正しい信を生ずべきである>以上は<正信法門>の文である」

(50) また『阿弥陀経義疏』にいっている。

 「一定の至極の教えも、最後に帰するところは、みな極楽世界を指し示すのである。すべての行の徳をまどかにおさめてもっともすぐれていることは、弥陀の名号にまさるものはない。まことに、阿弥陀仏は因位のときから、願をたて、志をかたく守り、行をきわめ、はかり知れない長い時をかけて、衆生を救おうとする慈悲の心をいだかれた。そして、芥子粒ほどのわずかな場所であっても、衆生救済のために自らの身を捨てて行を修めていかれなかったところはないのである。智慧と慈悲を兼ねそなえた六波羅蜜の行を修め、すべてのものを導いて摂め取り、余すところがない。その身心もあらゆる財宝も、盛っておられたものはすべて求められるままにお与えになった。このようにして、機が熟し縁が生じ、行が満足し、功徳が成就して、一時に法身・報身・応身のさとりの身をまどかに成就されたのである。そのすべての徳がみな阿弥陀仏の四字にあらわれているのである」

(51) また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。

 「まして、阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。そこで、この名号を耳に聞き、口に称えると、限りない尊い功徳が心に入りこみ、長く成仏の因となって、たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、この上ない仏のさとりを得ることができる。まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、多くの功徳をそなえていることが知られるのである」

(52) また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。

 「臨終の正しい思いということについて、凡夫の臨終は、心が乱れてしまい、平生の善悪の行いが因となり、必ずその報いがあらわれることになる。悪い思いをおこすこともあれば、よこしまな考えをおこすこともあれば、愛着の情を生じることもあれば、狂乱の悪相を示すこともある。これらはどれも迷いのすがたというべきである。しかし以前より、仏の名号を称えているものは、それによって、罪が滅し、さわりが除かれ、心の内は清らかな念仏の功徳に満ち、外は大いなる慈悲の光明に摂め取られるのであって、わずか一刹那の間に、迷いの苦を逃れ、浄土の楽を得ることができるのである。この『阿弥陀経』の次の文に浄土往生をお勧めになっているのは、このような利益があるからである」

(53) また『観経義疏』にいっている。

 「慈雲法師は、<浄土へ往生する清らかな行いだけが、さとりへのまことの近道であるから、これを修めるべきである。出家のものも在家のものも、速やかに無明の闇を破って、永久に五逆・十悪などすべての罪を滅したいと思うなら、まさにこの法を修めるべきである。大乗・小乗の戒律を長く清らかにたもち、念仏三昧を得て、菩薩のさまざまな行を成就したいと思うなら、まさにこの法を学ぶべきである。臨終に、さまざまな恐れを離れ、見も心も安らかになり、現れ出た多くの聖者に手を取られて導かれ、そしてはじめて煩悩を離れて不退転の位に至り、速やかに無生のさとりを得たいと思うなら、まさにこの法を学ぶべきである>といっている。昔のすぐれた方が教えておられる言葉にしたがうべきである。以上、五つに分けて要点を述べた。これ以外のことについてはここには述べず、文を釈するところで詳しく明かそう。

 『開元釈教録』によると、この『観無量寿経』は、二回訳されている。前の訳本はすでになくなり、今の訳本は畺良耶舎の訳である。『高僧伝』には、<畺良耶舎はこの国の言葉では時称という。宋の元嘉のはじめに都に来られた。文帝の時代である>とある」

(54) 慈雲がいっている(観経義疏)。

 「念仏の教えは真実をもっとも明らかに説いた教えである。完全なさとりにもっとも速やかに到達できる教えである」

(55) 大智がいっている(観経義疏)。

 「念仏の教えは完全なさとりに速やかに到達できる唯一最上の教えである。それは純粋でまじりけがない」

(56) 律宗の戒度が『正観記』にいっている。

 「阿弥陀仏の名号は、法蔵菩薩がはかり知れない長い間行を修められたことによってできあがったもので、そのすべての功徳をおさめている。それらの功徳がみな阿弥陀仏という四字にあらわれているのである。だから、この仏の名号を称えれば、利益を得ることは限りなく深いのである」

(57) 律宗の用欽がいっている。

 「今もし、弥陀一仏の尊い名号を心に念じ口に称えれば、その仏の因位から果位に至るまでの無量の功徳がこの身にすべてそなわるのである」

(58) また次のようにいっている。

 「すべての仏がたには、はかり知れない時を経て実装をさとられ、あらゆる執着を離れておられるから、おこされた願は虚妄の相を離れた大いなる願であり、どのようにすぐれた行を修めても、それにとらわれることはない。さとりを得てもそれにとらわれず、浄土をうるわしくととのえてもそれにとらわれない。神通力をあらわしても、それは通常の神通力を超えているので、広く舌相を示して世界のすみずみにまで、とらわれることなく真実の法をお説きになる。だから、この『阿弥陀経』を信じるようお勧めになるのである。どうして凡夫がこのことを、思いはかり、あれこれいうことができようか。わたしが思うには、仏がたのはかり知れない功徳は、たちまちに阿弥陀仏とその浄土の荘厳に収まっている。弥陀の名号をたもつ念仏の行は、この仏がたの説の中に必ず収まっているのである。

(59) 三論宗の祖師、嘉祥が『観経義疏』にいっている。

 「問うていう。念仏三昧は、どういうわけで、このような多くの罪を滅することができるのであろうか。

 この問いについて解き明かすと、仏ははかり知れない功徳をそなえておいでになる。この仏のはかり知れない功徳を念ずるのであるから、はかり知れない罪を滅することができるのである」

(60) 法相宗の祖師、法位が『大経義疏』にいっている。

 「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号を称えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」

(61) 禅宗の飛錫が『念仏三昧宝王論』にいっている。

 「念仏三昧の善は最上のものである。すべての行の王であるから三昧の王というのである」

(62) 『往生要集』にいわれている。

 「『無量寿経』に説かれる三輩の行には、浅いものもあれば深いものもあるが、それぞれにすべて、<ただひとすじに無量寿仏を念じる>と説かれている。三つには、四十八願の中で、念仏の教えについて、と区別に一つの願をおこされており、<たとえば十声念仏して、もし、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。四つには、『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

(63) また次のようにいわれている(往生要集)。

 「『心地観経』に説かれている仏の六趣の功徳によるべきである。一つには、田畑のように、この上ない大いなる功徳を生じてくださる方である。二つには、この上ない大いなる恩徳を恵んでくださる方である。三つには、すべての命あるものの中でもっとも尊い方である。四つには、優曇華のようにきわめて遇いがたい方である。五つには、三千大千世界にただ独り出られる方である。六つには、世間と出世間の功徳をまどかにそなえた方である。仏はこのような六趣の功徳をそなえておいでになり、常にすべての衆生を利益されるのである。

(64) この六趣の功徳によって、源信和尚は次のようにいわれている(往生要集)。

 「一つには、次のように仏を念じるがよい。一声念仏すれば、みなすでにさとりを開くことのできる身となる。だからわたしは、田畑のように、この上ない大いなる功徳を生じてくださる阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。二つには、次のように仏を念じるがよい。仏は慈悲の眼で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。三つには、次のように仏を念じるがよい。すべての世界の菩薩がたも阿弥陀仏をあつく敬われる。だからわたしは、この上もなく尊い方である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。四つには、次のように仏を念じるがよい。わずかひとたびでも仏の名号を聞くことができるのは、優曇華が咲くよりもまれなことである。だからわたしは、きわめて遇いがたい肩である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。五つには、次のように仏を念じるがよい。三千大千世界に二仏が同時にお出ましになるきおとはない。だからわたしは、たぐいまれなすぐれた法王である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる。六つには、次のように仏を念じるがよい。仏・法・僧の三宝は、過去・現在・未来を通じてその本質は同一である。だからわたしは、三宝すべての徳をまどかにそなえた方である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる」

(65) また次のようにいわれている(往生要集)。

 「利天にある波利質多樹の花で、一日の間衣に香りをつけると、瞻蔔華や波師迦華で専念の間香りをつけても、とうてい及ぶことができないように、念仏の功徳はあらゆる功徳に超えすぐれている」

(66) また次のようにいわれている(往生要集)。

 「一斤の石汁は、千斤の銅を黄金に変えることができる。牛が雪山にある忍辱という名の草を食べると、その牛は醍醐を出す。尸利沙の樹は昴星が現れると果実をつける。まるでこのように、名号を称えると功徳が得られるのである」

(67) 源空上人の『選択集』にいわれている。

 「南無阿弥陀仏浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」

(68) また次のようにいわれている(選択集)。

 「そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。


(69)

 上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
 阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。


(70) そこで『往生論註』にいわれている。

 「浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである」


(71)

 そういうわけで、真実の行信を獲たならば、心は大きな喜びに満たされますから、これを歓喜地と名づけます。歓喜地は、小乗の聖者の最初の位である初果、すなわち預流果に喩えられています。それは初めて真理をさとる智慧を得た初果の聖者は、たとえ修行中に居眠りするような、怠け心を起こしたり、修行を中断するようなことがあったとしても、天上界と人界と(中有と)を二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがないように、歓喜地の菩薩は、必ず仏陀のさとりを完成することに決定しているからです。
 まして十方世界のあらゆる迷いの衆生も、阿弥陀仏の仰せにしたがって、南無(信)阿弥陀仏(行)を受けいれ、本願を信じ、その名を称える身になるならば、阿弥陀仏は必ず大悲の光明のなかに摂め取って、決して見捨てたまうことはありません。それゆえ阿弥陀仏(光明無量の徳をもつ仏陀)と名づけたてまつるのです。このように、人びとを本願を信じ念仏するものに育てて摂取する阿弥陀仏の本願力のはたらきを他力というのです。
 それゆえに、龍樹菩薩は「阿弥陀仏を念ずるものは、即時に必定に入る」といわれ、曇鸞大師は「正定聚の数に入る」といわれたのです。本願の名号は、仰いでたのみたてまつるべきであり、ひとえにこれを行ずべきです。


(72)

 (阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に誓えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に誓えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
 しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に誓えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
 それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。


(73)

 およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。


(74) だから『無量寿経』に説かれている。

 「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」

(75) 善導大師は『観経疏』に「下至一念」(散善義)といい、また『往生礼讃』に「一声一念」といい、また『観経疏』に「専心専念(散善義)といわれている。

(76) 智昇師の『集諸経礼懺儀』におさめられている善導大師の『往生礼讃』にいわれている。

 「深心とは、すなわち真実の信心である。わたしはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生れ変り死に変りしてそこから出ることができないと信知し、いま阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声などのものやただ名号を聞いて信じるものに至るまで、かならず往生させてくださると信知して、少しも疑いの心がない、だから深心というのである」


(77)

 『無量寿経』には「乃至」と説かれ、善導大師の『観経疏』には「下至」といわれています。乃至と下至とは、言葉は違っていますが、いずれも称名の数を限定しないという意味では同じです。また乃至とは、一念も多念もすべて包み込んでいる言葉です。「大利」というのは「小利」に対する言葉であり、「無上」とは「有上」に対する言葉です。
 これによって、大利無上とは、本願一乗の法のもつ真実の利益を表しており、小利有上とは、真実に引き入れるためにしばらく説き与えられた、八万四千の自力聖道門の利益を表していることがよくわかります。
『観経疏』に専心、専念という言葉がありますが、「専心」といわれたのは一心のことであって、二心(ふたごころ)のないことをあらわしています。
「専念」といわれたのは、一行のことであって、二つの行(余行)を並べ行ずることをしないことをいうのです。いま 『無量寿経』の弥勤付属の経文に説かれている「一念」は、すなわち一声のことです。一声はすなわち一念ですが、この一念には一行という意味があります。一行はすなわち正行(正当の行)という意味があります。正行とはすなわち正定の業(正しく往生の決定する行業)という意味があります。
正定の業は、すなわち正念 (正しい信念)です。正念とは、心に仏を信じ、口に仏名を称えていることですから、すなわち念仏です。これは本願の名号が心にあらわれ、口にあらわれていることですから、すなわち南無阿弥陀仏のほかにありません。


(78)

 こうして、大悲本願の船に乗って、摂取不捨の光明がくまなく照らす大海に浮かべば、この上なく尊い功徳の風が静かに吹いて、念仏の衆生を彼岸の浄土へと送り届けてくださいます。
さまざまな禍の波は転じて功徳の順風に変わっていきます。すなわち無明煩悩の闇を破って、すみやかに限りない智慧の光の世界へと到れば、煩悩の寂滅した最高のさとりを究め、大悲心をおこして、苦しみ悩む人びとを救うために、十方世界に身を現して普賢菩薩のように自在の救済活動をさせていただくのです。よく知るがよい。


(79) 『安楽集』にいわれている。

 「十声の念仏とは、釈尊が一つの数をあげられたにすぎない。念仏を続けて、他のことを思わなければ、往生の業因は必ず成就するのである。わずらわしく念仏の数を数える必要はない。また、もし長い間念仏を続けている人なら、数を数える必要はないが、念仏を始めたばかりの人なら、その数を数えてもよい。これもまた聖教によりどころがある」


(80)

これらの経論釈の文は、念仏が真実の行であることを顕す明らかな証文です。これらによって明らかに、念仏は如来が選び取られた本願の行であり、他に超え勝れたたぐいなき行であり、万物が分け隔てなく円に融け合っている真実が顕現している正真の法であり、何ものにも妨げられることなく衆生を救う究極の大行であるということを知ることができました。


(81)

他力というのは、阿弥陀仏の本願力のことです。


(82) 『往生論註』にいわれている。

 「本願のはたらきとは、法蔵菩薩が平等法身のさとりの中において、常に禅定にあって、さまざまなすがたを現し、さまざまな神通力をあらわし、さまざまな説法をなされることをいう。これらはみな本願のはたらきからおこったものである。たとえば阿修羅の琴は、弾くものがいなくても自然に調べを奏でるようなものである。これを思いのままに衆生を教え導く醍醐の功徳の相というのである。(中略)

 『浄土論』には、<法蔵菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四種の門において自利の行を成就されたと、知るべきである>とある。<成就>とは、菩薩の自利が完成したことをいう。<知るべきである>とは、自利を完成することによって利他することができるのであって、自利を完成できずに利他するのではないと知るべきである、という意味である。

 次に、<法蔵菩薩は第五の回向門において衆生に功徳を施される利他の行を成就されたと、知るべきである>とある。<成就>とは、法蔵菩薩が因位の回向門によって、思いのままに衆生を教え導くという果をさとられたことをいう。因も果も一つとして利他でないことはない。<知るべきである>とは、利他を完成することによって自利することができるのであって、利他を完成できずに自利するのではないと知るべきである、という意味である。

 次に、<法蔵菩薩はこのように五念門の行を修めて自利利他を完成し、速やかに阿耨多羅三藐三菩提の成就を得られたからである>とある。仏の得られたさとりを阿耨多羅三藐三菩提という。このさとりを得られたから仏というのである。いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。<無上>とは、この道がすべてのものの真理や本性をきあめ尽していて、これを超えるものはいないことを意味する。なぜそのようにいうかというと、<正>だからである。<正>というのはさとりの智慧である。すべてをありのままに知るから正しい智慧という。すべてのものの本性は定まった相がないから、これをさとる智慧も、分別を離れた智慧である。<遍>の意味に二種がある。一つには、仏のさとりの心が広くすべての法を知り尽していることであり、二つには、さとりの身が広くすべての世界に満ちわたっていることである。仏は身も意も行きわたらないところがないのである。<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。このように諸法不二の相をさとることが無礙の相である。

 問うていう。どのような縁によって、<速やかに阿耨多羅三藐三菩提の成就を得る>と、『浄土論』にはいわれているのか。

 答えていう。『浄土論』には、<法蔵菩薩が五念門の行を修めて自利利他を完成されたからである>といわれている。そこでいま、衆生が速やかにさとりを得ることの根本を明らかにするなら、阿弥陀仏をそのもっともすぐれたはたらきとするのである。

 他利と利他とについては、何を語ろうとするかによって違いがある。仏の方からいうなら、他すなわち衆生を利益するのであるから、利他というのがよい。衆生の方からいうなら、他すなわち仏が利益するのであるから、他利というのがよい。いまは仏のはたらきを語ろうとするのであるから利他というのである。この意味をよく知るがよい。

 そもそも、衆生が浄土に生れることも、浄土に生れてからさまざまなはたらきをあらわすことも、みな阿弥陀仏の本願のはたらきによるのである。なぜなら、もし仏力によらないのであれば、四十八願が設けられたのは無意味なことになるからである。今これを示す三つの願を引いてそのわけを証明しよう。

 まず第十八願に、<わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生れると思って、たとえば十声念仏する。もし、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

 また第十一願に、<わたしが仏になったとき、国の中の人々が正定聚に住して必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、正定聚に住する。正定聚に住するから必ずさとりに至ることができ、迷いの世界をさまよい苦しむことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第二の証である。

 また第二十二願に、<わたしが仏になったとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、かならず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。各自の希望によって、それぞれの菩薩が人々を自在に導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、すべての仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、通常に超えすぐれて、菩薩の徳をすべてそなえ、人々を救うはたらきをすることができる。通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、菩薩の徳をすべてそなえるというのが、速やかに仏となることができるということの第三の証である。

 これらのことから、他力すなわち仏のはたらきということを考えてみると、他力は人々が速やかにさとりを得るためのもっともすぐれたはたらきなのである。それはもはや否定できないことである。

 さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。

 自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない」

(83) 元照律師が『観経義疏』にいっている。

 「この世界で煩悩を断ち切ってさとりを開くには自力を用いる。そのことは、大乗や小乗の多くの経典の中に説かれている。また、浄土に往って法を聞き、さとりを開くには他力にまかせるべきである。このため、往生浄土の法が説かれている。自力の法門と他力の法門との違いはあっても、どちらも、わたしたちにさとりを開かせるための如来の巧みな手だてである。


(84)

一乗海というのは、一乗とは、大乗です。大乗とは、すべてのものが仏になることのできる法を説く教えですから、仏乗ともいいます。
一乗を得るものは、最高のさとりを得ます。
最高のさとりとは、涅槃の境界です。涅槃の境界とは、究極のさとりそのものである究竟法身のことです。究竟法身を得るということは、一乗の法を究め尽くすことです。
このほかに異なった如来はありませんし、異なった法身もありません。
如来は、すなわち法身なのです。一乗の法を究め尽くすということは、空間と時間の制約を超えた領域に達することです。
真の大乗からいえば、二乗とか三乗というような教えは実体としてあるわけではありません。二乗とか三乗というような教えは、未熟なものを育て導いていくための方便として、仮にしばらく設定された教えであって、唯一無二の真実教である一乗に引き入れようとして説かれただけのものです。
一乗は、最高の真実が顕現している教え(第一義乗)です。
真の一乗といわれるものは、一切の衆生を平等に救って往生成仏させる阿弥陀仏の誓願一仏乗だけです。


(85) 『涅槃経』に説かれている。

 「善良なものよ、真実の教えを大乗という。大乗でないものは真実の教えとはいわない。善良なものよ、真実の教えとは仏の説かれたもので、悪魔の説いたものではない。悪魔の説いたものは、これは仏の説かれたものではないから、真実の教えとはいわないのである。善良なものよ、真実の教えは、清らかなただ一つの道であり、二つあることはない」

(86) また次のように説かれている(涅槃経)。

 「どうして、菩薩は一乗の法に信順するのか。菩薩は、仏がすべての衆生を導いて、みなその一道に入らせることを、明らかに知っている。一道とは大乗の教えである。仏や菩薩たちは、さまざまな衆生のために、仮に、声聞の教え・縁覚の教え・菩薩の教えと、三乗に分けて説かれているのである。だから、菩薩は一乗の法に信順するのである」

(87) また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、畢竟に二種がある。一つには荘厳畢竟、もう一つは究竟畢竟である。これをそれぞれ世間畢竟とも出世畢竟ともいう。荘厳畢竟とは六波羅蜜の行であり、究竟畢竟とはすべての衆生が得る一乗の道である。この一乗の道を仏性という。このようなわけで、わたしは<すべての衆生にことごとく仏性がある>と説くのである。すべての衆生は、ことごとく一乗の道を得ることができる。ただ煩悩におおわれているから、これを見ることができないのである」

(88) また次のように説かれている(涅槃経)。

 「なぜ一とするのか。すべての衆生が、ことごとく一乗の道を得るからである。なぜ非一とするのか。仮に三乗に分けて説かれるからである。なぜ一でもなく非一でもないとするのか。一乗の道は数で限定することのできないものだからである」

(89) 『華厳経』に説かれている。

 「文殊の法は本来不変である。法の王とはただ一つの法のことである。すべての仏がたは、この一道によって迷いを出られた。だからすべての仏がたの法身は、ただ一つの法身である。一つの心であり、一つの智慧である。力も徳も同様である」


(90)

 上に引文として挙げた『捏磐経』や『華厳経』に説かれたような一乗仏教の完全なさとりは、すべてみな安養浄土にいたって得られる偉大な利益であり、本願力によって与えられる、はかり知ることのできない、尊い功徳なのです。


(91)

 「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。
 この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。
これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。
 本願の海には、下類の声聞や中類の縁覚の自力雑行の善の死骸を宿しません。まして人間や天人の偽善や、煩悩の毒のまじった自力心の死骸を宿すはずがありません。


(92) だから『無量寿経』に説かれている。

 「声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。まるで生れながらに目の見えない人が、人を導こうとするようなものである。如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけが知っておいでになる」

(93) 『往生論註』にいわれている。

 「<不虚作住持功徳成就とは何か。願生偈に、«阿弥陀仏の本願のはたらきに遇ったものは、いたずらに迷いの生死を繰り返すことはなく、仏は速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる»という>と『浄土論』に述べられている。

 <不虚作住持功徳成就>とは、つまり阿弥陀仏の本願のはたらきのことである。いま、少しばかりこの世のことがいつわりであてにならないことを示して、本願のはたらきがいつわりでなく代わらないこと、すなわち不虚作住持ということについて明らかにしよう。(中略)本願のはたらきがいつわりでなく変らないのは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀仏の自由自在で不可思議な力とにもとづくのである。願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終ることはなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである」

(94) また次のようにいわれている(往生論註)。

 「<海>というのは、すべてを知り尽しておいでになる仏の智慧が、深く広く果てしなく、声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さないことを、海のようであるとたとえるのである。だから『浄土論』に、<浄土に往生する不動の人々は、如来の清らかな智慧の海から生れる>と述べられている。<不動>とは、浄土に往生する人々が大乗の資質を成就しており、決して揺り動かされないという意味である」

(95) 善導大師が『観経疏』にいわれている(玄義分)。

 「わたしは速やかにさとりを開く大乗の教えである一乗海による」

(96) また『般舟讃』にいわれている。

 「『菩薩瓔珞経』の中には長い時を費やさなければならない教えが説かれている。それは、一万劫の間修行して不退転の位に至ることができるのである。『観無量寿経』や『阿弥陀経』などに説かれている教えは、速やかに仏のさとりを開くことができる教えである」

(97) 宗暁が『楽邦文類』にいっている。

 「還丹という薬はたった一つ部で鉄を金に変える。真実の道理である如来の名号は、悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」


(98)

 しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な囚人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、請書は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。


 教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。


(99)

 また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雉毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
 このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。

(100)

 謹んですべての往生を願う人びとに申し上げます。弘誓一乗海は、何ものにもさまたげられることなく人びとを救う法であり、きわも辺もなく、最も勝れており、奥深くて、説き尽くすことも、たたえ尽くすことも、思いはかることもできない最高の徳が成就されています。なぜならば、不可思議なる誓願によって成就されたものであるからです。
 その誓願の不可思議なるありさまを誓えで表せば、
1. 悲願は大空のようです、広大無辺のさまざまな素晴らしい功徳を包んでいるからです。
2. ちょうど大車のようです、凡夫であれ聖者であれ、あらゆる人を乗せて、さとりの世界へ運んで行くからです。
3. ちょうど美しい蓮華のようです、一切の世俗の事柄に汚染されることがないからです。
4. 善見薬王樹のようです、すべての煩悩の病を見抜いて退治するからです。
5. ちょうど利剣のようです、人びとが纏っている一切の僑慢の鎧を断ち切るからです。
6. 勇将帝釈天の幡(軍旗) のようです、一切の悪魔の軍勢を降伏させるからです。
7. ちょうど鋭い鋸のようなものです、よく一切の無明の樹を切り倒すからです。
8. ちょうどよく切れる斧のようです、よく一切の苦しみの枝を伐るからです。
9. 善知識のようです、よく人びとを生死に縛りつけている迷妄の絆から解放してくれるからです。
10. ちょうど導師のようです、よく凡夫に生死を超える肝要な道を知らせるからです。
11. ちょうど涌き出る泉のようです、はてしなく智慧の水を出し続けるからです。
12. ちょうど泥沼に咲く蓮華のようです、一切の罪の垢に汚染せられることがないからです。
13. ちょうど疾風のようです、一切衆生の罪障の霧を吹き払うからです。
14. ちょうど美味しい蜜のようです、一切の功徳の味わいが円かに具わっているからです。
15. ちょうど正しい道のようです、あらゆる人びとをさとりの智慧の領域に入れしめるからです。
16. ちょうど磁石のようです、本願に誓われたとおりに信心の行者を吸いつけていくからです。
17. また閻浮檀金(純度の高い金)のようです、常住無為の善である本願の名号の光は、煩悩に汚れた世間の無常有為の善の光を奪い取ってしまうからです。
18. ちょうど伏蔵(地下の宝庫)のようです、よく一切の諸仏の法を摂めているからです。
19. ちょうど大地のようです、過去・現在・未来の三世にわたって、十方に出現されるすべての仏陀たちが、そこから出生されるからです。
20. 太陽の光のようです、一切の凡夫の愚痴の闇を破って、信心を起こさせるからです。
21. ちょうど大王のようです、大王が諸侯に超え勝れているように、一切の諸仏(上乗人)に超え勝れているからです。
22. ちょうど厳しい父のようです、一切の凡夫や聖者を教え導くからです。
23. ちょうど慈愛に満ちた母のようです、一切の凡夫や聖者が報土に往生するまことの因である信心をはぐくみ育てるからです。
24. ちょうど乳母のようです、善人であれ悪人であれ、往生しょうと願うすべての人を守り育てるからです。
25. ちょうど大地のようです、すべての往生人をしっかりと支えているからです。
26. ちょうど洪水のようです、よく一切の煩悩の垢を洗い流してしまうからです。
27. ちょうど大火のようです、火が薪を焼くように、あらゆる邪見や偏見などの誤った見解を焼き尽くすからです。
28. ちょうど大風のようです、あまねく世界に行きわたって、何ものにも妨げられないからです。

 このような誓願一仏乗は、

① 迷いの境界(三界) に繋ぎとめられている衆生をよく救い出し、
② ふたたび迷界へ転落しないように、すべての迷いの境界(二十五有) への門を閉じ、
③ よく真実報土へ往生させ、
④ 邪なる路と正しい道とをはっきりとわきまえさせ、
⑤ 本願を疑う疑惑の海を干上がらせて、
⑥ 信心を獲て本願の海に流れ入れしめられます。
⑦ 浄土に至れば、完全なさとりの智慧をきわめて、大悲をおこし、さとりの船に乗ぜしめて、
⑧ 迷える人びとを救うために衆生海に浮かび、
⑨ 福智蔵と呼ばれる 『無量寿経』を説いて、完全な真実を知らせます。
⑩ しかし、ただちに真実を受けいれられないものには、方便蔵と呼ばれる『観無量寿経』 や『阿弥陀経』を説いて、未熟な人を導くはたらきをさせていきます。まことに信奉すべき教えであり、ことに頂戴しなければならない法であります。



(101)

 そもそも阿弥陀仏の誓願には、真実の行信と、方便の行信とが誓われています。その真実の行を誓われた願は諸仏称名の願(第十七願)であり、その真実の信を誓われた願は至心信楽の願(第十八願)です。
これが選択本願の行信です。それによって救われるものは、一切の善人や悪人であり、大乗や小乗の教えに遇いながらも救われなかった愚かな凡夫のすべてです。
それらが真実の行信を与えられて真実の浄土に往生せしめられるのですが、その往生はそのまま最高のさとりの完成を意味していますから難思議往生といいます。
浄土で感得する仏陀と浄土は、光明無量、寿命無量の徳をもつ真実の報身仏であり報土です。これが私たちの思いはからいを超えた不可思議なる誓願のはたらきによってもたらされる救いなのです。
その本願は、自他の隔てを超え、生死を超えた、真如という唯一無二の真実が実現した教法であって、『大無量寿経』に説かれた教えの要であり、他力真宗といわれる教法の正しい意味です。
 そこで、このような救いを与えてくださった仏陀のご恩を偲び、その徳に報いたいと思って、曇鸞大師の『論註』を開くと、そこにこういう言葉がありました。
「菩薩はつねに仏陀の教えにしたがって行動します。それはちょうど孝子が父母にしたがい、忠臣が君后にしたがって進退し、自分勝手な振る舞いをせず、その行動はいつも父母や君后の意向にかなっているようなものです。
そういう菩薩が仏陀の恩を知って、その徳に報いようとしたとき、何よりもまず第一に仏陀に自分の思いを申しあげるのが当然の道理です。また経典に説かれている法義を、如来のお心にかなって人びとに説き明かすことは、決して軽々しいことではありません。
もし如来の偉大なお力を加えていただかなかったならば、どうして達成することができましょう。
そこで如来にその不可思議な威力を加えてくださることを乞うという意味を込めて、天親菩薩は 『浄土論』 のはじめに、まず『世尊よ』と仰いで、お告げになったのです」と。
 こうして私は大聖釈迦牟尼仏の真実の言葉にしたがい、浄土の祖師方の註釈を拝読して、阿弥陀仏のご恩を深く蒙っていることを知らせていただいたので、「正信念仏偈」を作って仏祖の恩徳に応えたいと思います。


正信念仏偈

(102)

限りなき「いのち」の如来に帰順し、はかりなき光の如来に帰依したてまつる。
如来もと法蔵菩薩と現れて、世自在王仏に導かれ、
諸仏の浄土の成り立ちや、人びとの善悪をみそなわし、
こよなく勝れた願をたて、かつてない大誓願を起こされた。
五劫のあいだ思惟を続け、一切を平等に救う道を選び取り、
救いのみ名を十方に、普く聞かそうと誓われた。
光明無量の仏となり、ひろく無量光・無辺光・無擬光・無対光・炎王光、
清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光、超日月光を放って、
あらゆる国を照らしたまえば、生けるものはみな光の内に包まれる。
本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。
その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。
信を得て如来と等しい徳をいただき、涅槃のさとりに至るのは、第十一願の功である。


すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。
濁ったこの世に生きるものはみな、釈尊の教えにしたがって本願を信じるべきである。
疑いなく本願を慶ぶ心が発れば、煩悩を断ち切らないままで、涅槃の領域にいたる。
凡夫も聖者も、五逆・謗法の極悪人も、本願の智慧海に入れば、
海に流れ込んだ川の水が同じ塩味に変わるように、仏心に転換する。
大智大悲の光明は、信心の行者を常に照らし護りたまう。
信心の行者は、すでに生死に惑う無知の闇は破られているが、
愛憎の煩悩は、雲や霧が天を覆うように、信心の天を覆っている。
しかし太陽が出ているかぎり、厚い雲霧に覆われていても、
地上に闇はないように、信心は煩悩を透して念仏者を導き続ける。
信心を獲て、阿弥陀仏に遇い、救われたことを慶ぶ人は、
本願力によって、迷いの境界を超え離れる徳をいただいている。
愚かな善・悪の凡夫であっても、如来の本願を聞いて疑いなく信受するならば、
仏は、広大な本願のこころを領解した勝れた智者であるとほめ、
白蓮華のような麗しい徳をもつものであると賞賛される。
万人を平等に救う法として如来より与えられる本願の念仏は、
自力をたのむ邪見で倣慢な悪人が、どれほど信じようとしても、
難中の難であって、絶対に不可能なことである。


インドに出現された菩薩たちや、中国・日本に出られた高僧たちは、
釈尊出現の本意は阿弥陀仏の本願を説くためであったことを顕し、
その本願は、凡夫にふさわしい救いの法であることを明らかにされた。
釈尊は楞伽山で、多くの人びとに次のように予言された。


「私が入滅した後、南インドに龍樹菩薩が現れて、
すべての人が有無にとらわれる邪見に陥っているのを打ち破り、
一切の衆生が救われていく最高の大乗仏教を説き示し、
歓喜地の境地にいたり、阿弥陀仏の浄土へ往生するであろう」と。
龍樹菩薩は、この土での修行は、険しい陸路をたどるように難行道であり、
念仏往生の道は、大船に乗って安らかに目的地へ往くような易行道であると教えられた。
「阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、
本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。
それゆえ、つねに名号を称えて、仏のご恩を報謝すべきである」といわれた。


天親菩薩は『浄土論』を著し「尽十方無擬光如来に帰依したてまつる」と信を表白された。
『無量寿経』によって、如来・浄土こそ真実であると顕し、
一切衆生を仏にならせる他力横超の本願を広く示された。
本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、
それを受けいれる一心(信心)が往生の因であると彰された。
本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰人した人は、
阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。
蓮華蔵世界といわれる浄土に往生すれば、直ちに真如をさとり、
迷える人びとを救うために、煩悩の世界に還り来て、不可思議の力を現し、
相手に応じてさまざまな姿をとり、思いのままに人びとを救う身となるといわれている。


曇鸞大師は、梁の天子武帝が、「曇鸞菩薩」と常に礼拝したほどの大徳であった。
菩提流支三蔵が浄土の経典を授けたので、
所持していた神仙術の奥義書を焼き捨てて、浄土の教えに帰入していかれた。
天親菩薩の『浄土論』に註釈を加え、往生の因も果も誓願によって成就すると顕された。
往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、
往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。
愛憎の煩悩に染まった凡夫も、信心が発るならば、
生死する身でありながら、生死を超えた涅槃をさとるべき身となる。
限りない大智大悲の光の世界である浄土に至れば、
迷いの境界で苦しんでいるすべてのものを救う身となるといわれた。


道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、
ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決着された。
この世でさまざまな修行をしても、かならず挫折すると自力修道を退け、
あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えることを勧められた。
自力の飾り心を離れ、二心なく、一生涯相続する他力の信心をねんごろに教え、
正法、像法、末法、法滅の隔てなくお救いくださる大悲本願の念仏を明かされた。
たとえ生涯悪行を造り続けたものも、本願を信じて念仏すれば、
安養浄土に往生して最高のさとりを完成せしめられると説かれた。


善導大師は、ただ独り、古今の『観無量寿経』領解の過ちを正していかれた。
善に誇る善人も、悪にひがむ悪人も、ともに哀れむべきものと思し召す阿弥陀仏は、
大悲の光明を縁として育て、往生の因となる名号を与えて救いたまうと顕された。
心開けて広大な本願の智慧の海に入り、
金剛のように堅固な信心の智慧をいただき、仏心に感応して救いを慶ぶ心がおこった行者は、
韋提希夫人と同じく、本願を喜び、領解し、信順する三忍を得、
浄土に往生すれば直ちに真如法性をさとる身となるといわれた。


源信僧都は、釈尊一代の教法を学び尽くして、
ひとえに浄土の教えに帰依して人びとに念仏を勧められた。
本願を信じて念仏する信心深き専修のものは真実の報土に生まれ、
自力修行の功徳をたのむ信心浅薄な雑修のものは方便化土に往生すると判定し、
信心の浅探によって、往生の果報に報土と化土の別が成立すると説かれた。
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はないといい、
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っているといわれた。


恩師源空聖人は、仏教を究め尽くした人であった。
善人であれ悪人であれ、不安な人生を生きるすべての凡夫を哀れんで、
浄土真宗の教えを日本の国に初めて開き顕し、
選択本願の念仏をこの濁悪の世に広めてくださった。
迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり、
すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。


釈尊の正意を伝えてくださった菩薩や祖師方は、
濁悪の世に生きるすべてのものに救いの光をもたらされた。
出家といわず在家といわず、いまこの法縁に遇うものは、
この高僧方の教えをはからいなく受けいれて信じるがよい。

 以上、六十行の詩を説き終わる。百二十句である。


出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
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