「止観」の版間の差分
提供: WikiArc
細 |
細 |
||
3行目: | 3行目: | ||
1.止は梵語シャマタ(śamatha)の漢訳、観は梵語ヴィパシュヤナー(vipaśyanā)の漢訳。もろもろのおもいを止めて心をひとつの対象に集中し(<ruby><rb>止</rb><rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>)、それによって正しい<ruby><rb>智慧</rb><rp>(</rp><rt>ちえ</rt><rp>)</rp></ruby>をおこして対象を<ruby><rb>観</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>る(<ruby><rb>観</rb><rp>(</rp><rt>かん</rt><rp>)</rp></ruby>)ことをいう。 | 1.止は梵語シャマタ(śamatha)の漢訳、観は梵語ヴィパシュヤナー(vipaśyanā)の漢訳。もろもろのおもいを止めて心をひとつの対象に集中し(<ruby><rb>止</rb><rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>)、それによって正しい<ruby><rb>智慧</rb><rp>(</rp><rt>ちえ</rt><rp>)</rp></ruby>をおこして対象を<ruby><rb>観</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>る(<ruby><rb>観</rb><rp>(</rp><rt>かん</rt><rp>)</rp></ruby>)ことをいう。 | ||
− | 2. 『[[摩訶止観]]』のこと。([[信巻末#P--253|信巻 P.253]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--832|要集 P.832]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--855|要集 P.855]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--905|要集 P.905]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--926|要集 P.926]]、[[往生要集中巻 (七祖)#P--956|要集 P.956]]) | + | 2. 『[[摩訶止観]]』のこと。([[信巻末#P--253|信巻 P.253]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--832|要集 P.832]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--855|要集 P.855]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--905|要集 P.905]]、[[往生要集上巻 (七祖)#P--926|要集 P.926]]、[[往生要集中巻 (七祖)#P--956|要集 P.956]]、[[往生要集中巻 (七祖)#P--969|要集 P.969]]) |
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- |
2010年11月10日 (水) 19:26時点における版
しかん
1.止は梵語シャマタ(śamatha)の漢訳、観は梵語ヴィパシュヤナー(vipaśyanā)の漢訳。もろもろのおもいを止めて心をひとつの対象に集中し(
2. 『摩訶止観』のこと。(信巻 P.253、要集 P.832、要集 P.855、要集 P.905、要集 P.926、要集 P.956、要集 P.969)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。