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「安心論題/念仏為本」の版間の差分

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2010年1月5日 (火) 13:06時点における版

(19)念仏為本


 法然上人は「往生の業は念仏を本とす」(往生之業、念仏為本)と示して、まさしく弥陀の浄土に往生する業因は称名念仏である、とお勧めくださいました。なぜ称名で往生できるのかと申しますと、それは阿弥陀仏の本願(第十八願)によるからだと仰せられるのです。
 これは善導大師が、称名念仏は本願に誓われた行であるから、まさしく往生の決定する業因(正定業)であるといわれた釈義を承けられたもので、善導・法然は念仏往生、すなわち「称えて往生」というお勧めが主になっています。
 宗祖親鸞聖人は、その師法然上人から念仏往生義を承けられて、信心一つで往生は決定する、すなわち信心のほかに私の行いは何一つ必要とはしないという唯信独達の宗義を明らかにされました。これが信心正因の義であります。
 そうしますと、法然上人の示された「念仏為本」、すなわち「称えて往生」という宗義と、親鸞聖人のあらわされた「信心正因」、すなわち「信ずる一つで往生」という宗義とは、くいちがうのではないか。また念仏為本とか念仏往生というのは称名正因になるのではないか。そういった問題についてうかがうのが、この「念仏為本」という論題であります。


 法然上人の著『選択本願念仏集』のはじめにかかげられた標宗の文に(真聖全一―九二九)、

南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本

とあります。それがこの論題の出拠であります。
 この「念仏為本」といわれた意味をうかがうについて、まず留意しなければならないのは、これは諸行に対して「念仏を本とす」といわれたのであって、信心に対して「念仏を本とす」といわれたのではないということであります。つまり、阿弥陀仏の浄土に往生する業因としては、称名念仏以外の行は「本」ではなく、南無阿弥陀仏と仏名をとなえる念仏が「本」であると示されるのです。
 この念仏為本の「本」とは「正」と同じ意味であると考えられます。すなわち、称名念仏が浄土往生の正しき業因であって、称名以外の行は浄土往生の正しき業因ではないという意味をあらわすのが、この「念仏為本」であります。


 本願の文には(真聖全一―九)、

十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者、

等と誓われています。「至心信楽欲生我国」は名号を私の心にいただいたすがたで、これが信心です。「乃至十念」は心にいただいた名号が私の口業にあらわれ出たすがたで、これが称名であります。この信心も称名も共に如来の名号が私の上に届いたすがたにほかなりません。したがって、如来の名号をいただいたすがたは、信心でも称名でも語られます。
 善導・法然は、諸行に対して称名念仏をもって本願の法をあらわされます。それが善導大師の示された称名正定業の義であり、法然上人の示される念仏為本の義であります。そして、これは信心を具した称名念仏で往生の業因を語られる念仏往生義であります。
 この場合、称名念仏でもって往生の業因を示されますけれども、舌を動かして声を発するという私の行為(口業)に功を認めるものではありません。『選択集』で申しますと、

時節の久近を問わず(散善義の文、真聖全一―九三四引用)、
行住坐臥をえらばず、時処諸縁を論ぜず(往生要集の文、真聖全一―九四四引用)、

といわれる本願他力の念仏であります。したがって、私を往生せしめる力用は如来の名号そのものにあるとされます。『選択集』の第三、本願章には、本願に他のすべての諸行を選び捨てて、念仏一行を往生行として選び取られた理由として、念仏は勝れていて易く、諸行は劣っていて難しいからであると述べられています。その念仏の勝れているわけを示されて(真聖全一―九四三)、

名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏の……一切の内証の功徳……一切の外用の功徳、みな悉く阿弥陀仏の名号のなかに摂在す。かるがゆえに名号の功徳もっとも勝れたりとす。

等と仰せられています。念仏が勝れているのは、実は名号が勝れているからであります。いいかえますと、念仏が往生の業因であるということは、阿弥陀仏の名号の力をいただいて往生させていただくことにほかなりません。したがって、自分の称えたことに功を認めて、これを正因と考える「称名正因」とは全く異なるのであります。


 念仏為本ということは、「信心」に対して「念仏」を本とするといわれたものではありません。すでに本願の文には「信じさせ、称えさせて往生させよう」とお誓いくだされてあるのですから、真実信心を具さないような念仏は本願の念仏ではありません。『選択集』にあっては、第八、三心章にその章目として(真聖全一―九五七)、

念仏の行者、必ず三心を具足すべきの文、

とかかげ、『観経』の三心と、これを註釈された善導大師の『散善義』の三心釈、および『往生礼讃』の前序の三心釈の文を出され、次に法然上人がこれを解釈されるところには、「深心」(これは本願の信楽にあたる)について(真聖全一―九六七)

まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止とし、涅槃の城には信をもって能入とす。

等とお示しくださっています。親鸞聖人の右の文の意味を『正信偈』の源空(法然)章に(真聖全二―四六)、

生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもって所止とす。
速かに寂静无為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。

とお述べになり、『高僧和讃』の源空讃(真聖全二―五一四)にもこの意味を讃詠して、法然上人の釈功とされています。
 以上によって、法然上人の「念仏為本」のお勧めは、称名正因とは異なるものであって、信心正因の義とすこしもくいちがいのないことが知られます。


 法然上人は、第十八願の一願だけで真宗の法をあらわされますから、諸行に対して「乃至十念」の念仏でもって、往生の業因を示されますが、その業因は如来の名号に帰結します。親鸞聖人は法然上人から承けた第十八願の法を、更に真実五願(第十七・第十八・第十一・第十二・第十三)に開いてお示しくださいます。この場合、往生せしむる力(業因)は名号自体にあるとされますから、第十七願のところで行を語られます。つまり、諸仏が称揚讃嘆されつつある弥陀の名号、その名号を大行とされます。したがって、「乃至十念」の称名はこの名号が衆生の上に活現しつつあるすがたであるとされるのです。そして五願に開示した場合は、第十八願は信心を誓われた願とし、名号の徳が衆生の上にそなわるのは信一念のときであるとあらわされるのであります。
 法然上人は信を具した称名行で往生を得ると仰せられたのを承けて、宗祖聖人は行から信を別開せられ、名号が業因であり、信心が正因である旨を明らかにされたのです。これによって、法然上人の仰せられる「称えて往生」は、私の称えるという行いに功を認めるような自力の念仏ではなくて、名号業因をいただいて往生という意味であると、念仏往生義の正しい意味を誤ることのないようにせられたのが宗祖の釈義であるといえましょう。
 宗祖は法然上人から承けた念仏往生義を生涯説き続けられました。宗祖の主著『教行信証』をはじめ和漢の聖教、御消息にいたるまで、その全般をうかがえば、このことは首肯されると思います。一例をあげますと、親鸞聖人が八十五歳のときに書かれた『一念多念文意』の終わりには(真聖全二―六一九)、

浄土真宗のならいには念仏往生ともうすなり。まったく一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたもうべし。

と仰せられています。熟読して味わうべきでありましょう。


 「往生之業、念仏為本」という語は、もと源信和尚の『往生要集』の第五助念方法門の第七総結要行(真聖全一―八四七)に出ている用語です。これは第四正修念仏門から第五助念方法門までに示された多くの行の中から、肝要とされる行を七つ挙げて結ばれるので、その七つの行の中で、称名念仏を本とするといわれるのです。この念仏は他の行によって助けられる念仏であって、念仏一行で往生という本願他力の念仏とは見がたいものです。しかし『要集』の第八、念仏証拠門(真聖全一―八八一)には本願他力の念仏が示されています。
 そこで法然上人は『要集』の助念方法門から用語をとり、意味は念仏証拠門に示される他力念仏として、『選択集』の標宗にかかげられたものと考えられます。そのことは、『選択集』の第三、本願章に(真聖全一―九四四)、右の念仏証拠門の文を引用せられていることからも知ることができましょう。
 また、『選択集』の一本(廬山寺本)では、「往生之業、念仏為先」となっています。それは同じく源信和尚の『妙行業記』に「念仏為先」となっていたので、それを用いられたものといわれます。
 親鸞聖人は『教行信証』の後述の文に(真聖全二―二〇一以下)、聖人三十三歳のとき(法然上人七十三歳)、『選択集』の書写を許され、その書写したものに、法然上人が直筆で「選択本願念仏集」という内題と、「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本」という標宗の文と、「釈綽空」という名までお書きいただいた、と記述されています。また、『教行信証』の行巻における「選択集」の引用(真聖全二―三三)、『信号真像銘文』(真聖全二―五九五)、いずれも「念仏為本」となっています。それで浄土真宗にあっては、「念仏為本」となっている「選択集」を用いています。
 なお、「念仏為先」となっていれば、「為本」とは少しニュアンスはちがいますけれども、宗義の上では大きなちがいがあるとは考えられません。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p210~