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「宝王如来の性起の義」の版間の差分

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ほうおうにょらいのしょうきのぎ
 
ほうおうにょらいのしょうきのぎ
  
   『華厳経』「宝王如来性起品」(晋訳巻第三十四)に、如来の身口意(しんくい)のはたらきはすべて法性の顕現にほかならないと説いていること。性起とは法性現起の意で、仏果の万徳は法性そのままのあらわれであるとの意。([[真巻#P--358|真巻 P.358]])
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 『華厳経』「宝王如来性起品」(晋訳巻第三十四)に、如来の身口意(しんくい)のはたらきはすべて法性の顕現にほかならないと説いていること。性起とは法性現起の意で、仏果の万徳は法性そのままのあらわれであるとの意。([[真巻#P--358|真巻 P.358]])
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 『華厳経』「宝王如来性起品」に説かれる意を指す。仏果は法性の理に順じて起こったものであるということ。ここでは阿弥陀仏の浄土も同じで真如法性の顕現したものであるという意を示す。 ([[浄土論註 (七祖)#P--60|論註P.60]])
  
 
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2010年5月5日 (水) 17:35時点における版

ほうおうにょらいのしょうきのぎ

 『華厳経』「宝王如来性起品」(晋訳巻第三十四)に、如来の身口意(しんくい)のはたらきはすべて法性の顕現にほかならないと説いていること。性起とは法性現起の意で、仏果の万徳は法性そのままのあらわれであるとの意。(真巻 P.358)


 『華厳経』「宝王如来性起品」に説かれる意を指す。仏果は法性の理に順じて起こったものであるということ。ここでは阿弥陀仏の浄土も同じで真如法性の顕現したものであるという意を示す。 (論註P.60)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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