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:「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、[[水火二河のたとへ]]にあらはれたり。 ([[一多#P--693|一多 P.693]])
 
:「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、[[水火二河のたとへ]]にあらはれたり。 ([[一多#P--693|一多 P.693]])
 
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とある。小乗仏教では[[見道]]に至る前の位を[[凡夫]]とし、[[忍・頂・煖|煖・頂・忍]]・世第一法位の四善根位を[[内凡]]、[[五停心観]]・別相念住・総相念住の[[三賢]]を[[外凡]]とする。大乗仏教では初地に至る前の位を[[凡夫]]とし、十住・十行・十回向の三賢を[[内凡]]、十信を[[外凡]]、外凡に満たない者を底下の[[凡夫]]とする。<br />
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浄土三部経では『観経』に[[韋提希]]を指して、
 
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とあり、御開山はこの文を釈して、
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2024年11月5日 (火) 17:06時点における最新版

ぼんぶ

 梵語プリタグ・ジャナ(pŗthag-jana)の漢訳。必栗託仡那(ひつりつたきつな)と音写し、異生(いしょう)と直訳する。凡愚(ぼんぐ)ともいう。四諦の真理をさとらず、(とん)(じん)()などの煩悩(ぼんのう)に束縛されて、六道輪廻するもの。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『観経』に、

仏、韋提希に告げたまはく、なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして (観経 P.93)

と「汝是凡夫心想羸劣」とある。 御開山は、これを、

汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生のたることを彰すなり。(化巻 P.382)

凡夫を悪人とみておられた。

ぼんぶ 凡夫

 梵語プリタグ・ジャナ (pṛthag-jana) の意訳。必栗(ひつりつ)託仡那(たきつな)と音訳し、異生とも意訳する。凡愚ともいう。聖者に対する語。四諦の真理をさとらず、貪・瞋・痴などの煩悩に束縛されて、六道輪廻する者をいう。『一多文意』には

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり」(註 693)

とある。小乗仏教では見道に至る前の位を凡夫とし、(なん)・頂・忍・世第一法の四善根位を内凡、五停心観・別相念住・総相念住の三賢外凡とする。
大乗仏教では初地に至る前の位を凡夫とし、十住・十行・十回向の三賢内凡十信外凡外凡に満たない者を底下の凡夫とする。(浄土真宗辞典)

凡夫を異生とするのは、種々の見解や煩悩によって種々の業を起こし、種々の果を受けて種々の世界に生まれる者だからである。
弘法大師 空海は、異生羝羊心(いしょう-ていようしん) として、異生は凡夫。羝羊は雄の羊。もっぱら食欲と性欲の本能にまかせて生きる羊を凡夫のたとえとされておられた。
『一念多念証文』には、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。 (一多 P.693)

とある。小乗仏教では見道に至る前の位を凡夫とし、煖・頂・忍・世第一法位の四善根位を内凡五停心観・別相念住・総相念住の三賢外凡とする。大乗仏教では初地に至る前の位を凡夫とし、十住・十行・十回向の三賢を内凡、十信を外凡、外凡に満たない者を底下の凡夫とする。

浄土三部経では『観経』に韋提希を指して、

なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ。(観経#P--93)

とあり、御開山はこの文を釈して、

汝是凡夫心想羸劣」(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣)といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。(化巻 P.382)

凡夫を悪人とみておられた。

怖畏

参照WEB版浄土宗大辞典の「凡夫」の項目

オンライン版 仏教辞典より転送

◆ 参照読み込み (transclusion) WDM:ぼんぶ

凡夫

pṛthag-jana प्रिथग् जन
 サンスクリット語の「pṛthag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。

 一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。

 この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。

 内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。

 如來は我者有りと説くも則ち我有るに非ず。而も凡夫の人は以って我有りと爲す。〔羅什訳金剛般若経、T8.0752a〕
 憍慢懈怠にして我見を計する者には、此經を説くこと莫れ。凡夫は淺識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能はざればなり。〔法華経第2譬喩品、T9.0015b〕

 聖徳太子は、「十七条憲法」の第十条で、「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」といって、凡夫を「ただびと」といわれ、お互いに許し合って生きてゆく世界の根本をここにもとめられている。

 親鸞は『一念多念証文 』に「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと水火二河のたとへにあらはれたり」と凡夫を煩悩具足としてとらえている。

 サンスクリット語のバーラ(bāla)を毛道(もうどう)と訳し、「毛道凡夫」などという経典があるが、これはbāla बल をvāla वल と読みちがえたものである。