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「剋念して…入る」の版間の差分

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Ⅱ『論註』の当分では「剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る」と読む。剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入る義であるが、親鸞聖人は原文を読みかえて、剋念願生する者(此土)と浄土に往生した者(彼土)との二類の正定聚があることを示された。
 
Ⅱ『論註』の当分では「剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る」と読む。剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入る義であるが、親鸞聖人は原文を読みかえて、剋念願生する者(此土)と浄土に往生した者(彼土)との二類の正定聚があることを示された。
  
剋念は心を専注して一心になること。ここは信心の異名。([[証巻#P--309|証巻 P.309]], [[一多#P--681|一多 P.681]])
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剋念は心を専注して一心になること。ここは信心の異名。([[証巻#P--309|証巻 P.309]], [[一多#P--681|一多 P.681]],[[三経往生文類#P--628|三経 P.628]])
  
 
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2007年12月26日 (水) 18:18時点における版

こくねんして…いる

Ⅰ 一心に。専心に。(三経 P.628) 

Ⅱ『論註』の当分では「剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る」と読む。剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入る義であるが、親鸞聖人は原文を読みかえて、剋念願生する者(此土)と浄土に往生した者(彼土)との二類の正定聚があることを示された。

剋念は心を専注して一心になること。ここは信心の異名。(証巻 P.309, 一多 P.681,三経 P.628)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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