「仮名」の版間の差分
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井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』では『起信論』の仮名について、 | 井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』では『起信論』の仮名について、 | ||
− | : | + | :「一切諸法(=全ての存在分節単位、一切の内的・外的事物事象)は、ただ妄念(=意識の意味分節作用)に依りて(相互間の)差別有るのみ。もし心念(=分節意識)を離るれば、則ち一切の境界(=対象的事物)の相(=形姿)なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた(=本来的には)言説の相(=コトバで表わされる意味単位としての事物の様相)を離れ、名字(=個々別々の事物の名称)の相を離れ、心縁(=思惟対象)の相を離れ、畢竟(=本源的には)平等(=一切の存在にわたって絶対無差別)にして、変異あることなく破壊す可からず、唯だ是れ一心(=絶対全一的な意識)のみなるを、故(ことさら)に(=強いて)真如と名づく。」 |
− | : | + | :「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把提できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、<kana>言(ごん)</kana>に依りて言を<kana>遣(や)</kana>るを謂うのみ(=コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」 |
− | : | + | :「当に知るべし、一切の法は(=本源的には)説く可からず、念ず(=思惟す)可からず。故に(=こういう事情をはっきり心得たうえで、敢えて)真如となす(=真如という仮名を使う)なり」と。→([[hwiki:大乗起信論#衆生心の真如の門]]) |
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「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得なるを以ての故に、真如と言うも、また相の有ることなし。言説の極、言(ごん)に依りて言を遣(や)るを謂うのみ……」<br /> | 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得なるを以ての故に、真如と言うも、また相の有ることなし。言説の極、言(ごん)に依りて言を遣(や)るを謂うのみ……」<br /> | ||
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2020年1月13日 (月) 14:31時点における版
井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』では『起信論』の仮名について、
- 「一切諸法(=全ての存在分節単位、一切の内的・外的事物事象)は、ただ妄念(=意識の意味分節作用)に依りて(相互間の)差別有るのみ。もし心念(=分節意識)を離るれば、則ち一切の境界(=対象的事物)の相(=形姿)なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた(=本来的には)言説の相(=コトバで表わされる意味単位としての事物の様相)を離れ、名字(=個々別々の事物の名称)の相を離れ、心縁(=思惟対象)の相を離れ、畢竟(=本源的には)平等(=一切の存在にわたって絶対無差別)にして、変異あることなく破壊す可からず、唯だ是れ一心(=絶対全一的な意識)のみなるを、故(ことさら)に(=強いて)真如と名づく。」
- 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把提できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、
言 に依りて言を遣 るを謂うのみ(=コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」 - 「当に知るべし、一切の法は(=本源的には)説く可からず、念ず(=思惟す)可からず。故に(=こういう事情をはっきり心得たうえで、敢えて)真如となす(=真如という仮名を使う)なり」と。→(hwiki:大乗起信論#衆生心の真如の門)
と分節ごとに解釈していた。
原文
「一切諸法は、ただ妄念に依りて差別有るのみ。もし心念を離るれば、則ち一切の境界の相なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく破壊す可からず、唯だ是れ一心のみなるを、故に真如と名づく。」
「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得なるを以ての故に、真如と言うも、また相の有ることなし。言説の極、言(ごん)に依りて言を遣(や)るを謂うのみ……」
「当に知るべし、一切の法は説く可(べ)からず、念ず可(べ)からず。故に真如となすと。」→(hwiki:大乗起信論#衆生心の真如の門)