「元仁元年」の版間の差分
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+ | 元仁は、貞応3年11月20日に、元仁に改元したので『教行証文類』執筆時が元仁と措定することはにわかには理解しがたい。御開山は当事関東に居られたので、京都での改元を関東におられた御開山が知られたのは、京都から鎌倉幕府へ通知し、そして民衆へと当時の情報伝達能力から察するに元仁元年といふ記述は改元とは別の意味があったのであろう。(なお御開山の末娘であり、後の浄土真宗といふ教団の濫觴(ものごとの始まりや起源を指すことば)の[[覚信|覚信尼]]が生まれたのは「元仁元年」でした。<br /> | ||
+ | ともあれ御開山は『教行証文類』の執筆時を元仁元年とされたのではなく、『延暦寺奏状』の出された貞応三年五月〔改元して元仁元年〕を基準年として末法の時代を考察されたのであろう([[化巻本#P--417|化巻 P.417]])。御開山は、改元後の年号を使われるのが通例であった。「化巻上」の次下に延暦寺の開山である最澄の『末法灯明記』を引文され、この『延暦寺奏状』の「諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事」への反論として、『教行証文類』で正・像・末の時代判定の考証とされていることは明らかであろう。そのような意味において、しばしば繰り返される念仏弾圧に対して正面から反論する書が『顕浄土真実教行証文類』であった。 | ||
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2022年12月22日 (木) 22:25時点における版
げんにんがんねん
1224年。親鸞聖人五十二歳。一般にはこの年が本書の撰述年代とされる。(化巻 P.417)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
真宗教団連合では、『教行証文類』「化巻上」での正法・像法・末法の三時を考察して記した文によって、浄土真宗の立教開宗の年とした。
- 三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘ふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、二千一百七十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて六百七十三歳なり。 (化巻 P.417)
の「我元仁元年(わが元仁元年)」の記述から、この文を記しているのは元仁元年(西暦1224年)であるとし、この年を浄土真宗の立教開宗の年としたのであろう。
元仁は、貞応3年11月20日に、元仁に改元したので『教行証文類』執筆時が元仁と措定することはにわかには理解しがたい。御開山は当事関東に居られたので、京都での改元を関東におられた御開山が知られたのは、京都から鎌倉幕府へ通知し、そして民衆へと当時の情報伝達能力から察するに元仁元年といふ記述は改元とは別の意味があったのであろう。(なお御開山の末娘であり、後の浄土真宗といふ教団の濫觴(ものごとの始まりや起源を指すことば)の覚信尼が生まれたのは「元仁元年」でした。
ともあれ御開山は『教行証文類』の執筆時を元仁元年とされたのではなく、『延暦寺奏状』の出された貞応三年五月〔改元して元仁元年〕を基準年として末法の時代を考察されたのであろう(化巻 P.417)。御開山は、改元後の年号を使われるのが通例であった。「化巻上」の次下に延暦寺の開山である最澄の『末法灯明記』を引文され、この『延暦寺奏状』の「諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事」への反論として、『教行証文類』で正・像・末の時代判定の考証とされていることは明らかであろう。そのような意味において、しばしば繰り返される念仏弾圧に対して正面から反論する書が『顕浄土真実教行証文類』であった。