「教証」の版間の差分
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未来仏である弥勒菩薩について『弥勒下生経』『弥勒大成仏経』『弥勒上生経』などによれば、弥勒菩薩は自力を以て、等覚金剛心の位まで昇りつめた菩薩であるから[[一生補処]]の菩薩といわれる 。そして五十六億七千万年の後、[[竜華三会]]の暁に、この上ない仏果を開かれ説法なさるのである。<br /> | 未来仏である弥勒菩薩について『弥勒下生経』『弥勒大成仏経』『弥勒上生経』などによれば、弥勒菩薩は自力を以て、等覚金剛心の位まで昇りつめた菩薩であるから[[一生補処]]の菩薩といわれる 。そして五十六億七千万年の後、[[竜華三会]]の暁に、この上ない仏果を開かれ説法なさるのである。<br /> | ||
− | いま、阿弥陀如来の本願力回向の念仏を行ずる衆生は、他力[[横超の金剛心]]を恵まれているから、この[[娑婆]]の命の終ると即時に[[大般涅槃]]を証(さと)るのである。自力門の弥勒菩薩は[[阿僧祇]]の修行を経て[[等覚]][[不退]]の位に住し、煩悩具足の念仏の衆生は[[摂取不捨]]のゆえに[[正定聚]][[不退]]の位に住するから、御開山は、弥勒菩薩と同じ[[一生補処]] | + | いま、阿弥陀如来の本願力回向の念仏を行ずる衆生は、他力[[横超の金剛心]]を恵まれているから、この[[娑婆]]の命の終ると即時に[[大般涅槃]]を証(さと)るのである。自力門の弥勒菩薩は[[阿僧祇]]の修行を経て[[等覚]][[不退]]の位に住し、煩悩具足の念仏の衆生は[[摂取不捨]]のゆえに[[正定聚]][[不退]]の位に住するから、御開山は、弥勒菩薩と同じ[[一生補処]]の位だといわれるのであった。阿弥陀如来が回向される往相回向の真心が、衆生に至りとどいて〔なんまんだぶ〕と称えさせてくださるからである。これすべて、阿弥陀如来の誓願の願力によるのであった。なお、「暁」という語と「夕」という対比によって自力門と他力門の綱格の違いをあらわしておられた。暁にとは、自らの修行によって獲た智慧の光によって、はっきりと自らが真理を認識する「眼見」であり、夕べとは、命終わらんとする時を日の沈む西方に喩え、生命の行方も判らない衆生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」([[大経上#18gan|大経 P.18]])の阿弥陀仏の「[[本願招喚の勅命]]」を聞く「[[聞見]]」であった。 |
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2018年9月14日 (金) 15:17時点における版
きょう-しょう (もん-しょう)
教証(理証)
聖教即ち経論に示された証拠で文証(もんしょう)ともいう。これに対して理論上の証明を理証(りしょう)という。(仏教学辞典)
教説が真実であることを経文や論釈の文の上から証明することを文証といい、その教説が真理であることを道理性をもって証明することを理証といふ。
教証(文証)の一例を挙げれば、真仏弟子釈(信巻 P.256)で、現生利益の傍依の釈文証として、王日休の『龍舒浄土文』以下『大経』『如来会』の弥勒の文、普授を示す律宗の用欽師の文を引文されて、
- 真知 弥勒大士窮等覚金剛心故 竜華三会之暁 当極無上覚位。
- 念仏衆生 窮横超金剛心故 臨終一念之夕 超証大般涅槃。
- 故曰便同也。
- 加之獲金剛心者 則与韋提等 即可獲得 喜・悟・信之忍。
- 是則 往相廻向之真心徹到故 籍不可思議之本誓故也。(原典版 漢文p.132)
と、真仏弟子(念仏の衆生)は、等覚の弥勒と等しい位に定められていると結釈されておられるのであった。
未来仏である弥勒菩薩について『弥勒下生経』『弥勒大成仏経』『弥勒上生経』などによれば、弥勒菩薩は自力を以て、等覚金剛心の位まで昇りつめた菩薩であるから一生補処の菩薩といわれる 。そして五十六億七千万年の後、竜華三会の暁に、この上ない仏果を開かれ説法なさるのである。
いま、阿弥陀如来の本願力回向の念仏を行ずる衆生は、他力横超の金剛心を恵まれているから、この娑婆の命の終ると即時に大般涅槃を証(さと)るのである。自力門の弥勒菩薩は阿僧祇の修行を経て等覚不退の位に住し、煩悩具足の念仏の衆生は摂取不捨のゆえに正定聚不退の位に住するから、御開山は、弥勒菩薩と同じ一生補処の位だといわれるのであった。阿弥陀如来が回向される往相回向の真心が、衆生に至りとどいて〔なんまんだぶ〕と称えさせてくださるからである。これすべて、阿弥陀如来の誓願の願力によるのであった。なお、「暁」という語と「夕」という対比によって自力門と他力門の綱格の違いをあらわしておられた。暁にとは、自らの修行によって獲た智慧の光によって、はっきりと自らが真理を認識する「眼見」であり、夕べとは、命終わらんとする時を日の沈む西方に喩え、生命の行方も判らない衆生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」(大経 P.18)の阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」を聞く「聞見」であった。