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「生死の家には…」の版間の差分

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信の反対語は本来は不信であるが、法然聖人は疑いであるとされた。<br>
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信の反対語は本来は不信であるが、法然聖人は疑いであるとされた。
;当知 生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
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:まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。([[選択本願念仏集 (七祖)#信疑決判|選択集 P.1248]])
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:当知 生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
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::まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。([[選択本願念仏集 (七祖)#信疑決判|選択集 P.1248]])
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この『選択集』の文を親鸞聖人は「正信念仏偈」で、
 
この『選択集』の文を親鸞聖人は「正信念仏偈」で、
;還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
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{{Inyou|
:生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
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:還来生死輪転家 決以疑情為所止 
と、讃詠されておられる。<br />
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::生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
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:速入寂静無為楽 必以信心為能入
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::すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。([[行巻#源空章|行巻 P.207]])
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と、讃詠されておられる。
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御開山が精読された[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1969A.47.0205c29.html 『[[楽邦文類]]』]には、
 
御開山が精読された[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1969A.47.0205c29.html 『[[楽邦文類]]』]には、
 
:淨土非難易。難易在人。
 
:淨土非難易。難易在人。

2018年9月28日 (金) 15:36時点における版

しょうじのいえには

 生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるがゆえである。 (選択集 P.1248)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

信の反対語は本来は不信であるが、法然聖人は疑いであるとされた。

当知 生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(選択集 P.1248)

この『選択集』の文を親鸞聖人は「正信念仏偈」で、

還来生死輪転家 決以疑情為所止 
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
速入寂静無為楽 必以信心為能入
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。(行巻 P.207)

と、讃詠されておられる。

御開山が精読された楽邦文類には、

淨土非難易。難易在人。
浄土は難易に非ず、難易は人にあり。
難者疑情咫尺萬里。易者信心萬里咫尺。
難とは、疑情は咫尺[1] を万里となし、易とは、信心は万里を咫尺とす。

と、疑情信心によって難易を対判してある。

なお覚如上人の修復する前の「鏡のご影」の下段の讃には、

源空聖人云
當□生死之家
以疑爲所止涅
槃之城以信□
能入 [2]

とあった。→鏡のご影の原文

シナでは城とは平城(ひらじろ)であり、城壁で囲んだ一定の区画した範囲をいい、住民の居るところをいう(日本の平城京や平安京などの形式。なお平城京などでは城壁は無い)。戦国期以後の日本の城のような城郭形式ではない。ここは王が居住する都(みやこ)でもある。『浄土論』や『浄土論註』には、浄土を国土・仏・菩薩の三種の荘厳で表現されていた。また浄影寺慧遠 (523-592)は四十八願の願意を考察し、摂法身の願、摂浄土の願、摂衆生の願としていた。このような意から阿弥陀仏のまします浄土を仏国土として一定の範囲をもつ城や都と表現するようになったのであろう。「この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」(定善義 P.406)
城(みやこ)→都→洛陽(紀元前1100年頃のシナの西周時代に都とされたところの名)→洛→楽(音通)? 楽にはねがう、たのしいという意味もあり『阿弥陀経』では極楽という。→常楽我浄


  1. 咫尺(しせき)。わずかの距離の意。「史記蘇秦伝」出。「せき」は漢音、呉音では「しゃく」。「咫」は周尺の八寸、「尺」は一尺〕のことで、 距離がきわめて近いこと。
  2. 源空聖人の云く。まさに[知るべし]、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入と[なす]。◇『選択集』信疑決判の文。p.1248