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「現代語 無量寿経 (巻上)」の版間の差分

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[[仏説_無量寿経_(巻上)-漢文#no4|(5)]] その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた 」
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[[仏説_無量寿経_(巻上)-漢文#no5|(5)]] その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた 」
  
 
====讃嘆の歌====
 
====讃嘆の歌====

2018年6月27日 (水) 13:40時点における版

仏説無量寿経


仏説無量寿経  (上巻)

曹魏天竺三蔵康僧鎧訳す

無量寿経の説かれた由来(序分)

(1) わたしが聞かせていただいたところは、次のようである。

 あるとき、釈尊は王舎城耆闍崛山においでになって、一万二千人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。

 みな神通力をそなえたすぐれた聖者たちで、そのおもなものの名を、了本際・正願・正語・大号・仁賢・離垢・名聞・善実・具足・牛王・優楼頻贏迦葉・伽耶伽葉・那提伽葉・摩訶伽葉・舎利弗・大目犍連・劫賓那・大住・大浄志・摩訶周那・満願子・離障・流灌・堅伏・面王・異乗・仁性・嘉楽・善来・羅云・阿難といい、教団における中心的な人たちばかりであった。

 また、大乗の菩薩たちともご一緒であった。すなわち、普賢・文殊・弥勒など賢劫の時代のすべての菩薩と、さらに賢護などの十六名の菩薩、および、善思議・信慧・空無・神通華・光英・慧上・智憧・寂根・願慧・香象・宝英・中住・制行・解脱などの菩薩たちとである。

(2) これらの菩薩たちは、みな普賢菩薩の尊い徳にしたがい、はかり知れない願と行をそなえて、すべての功徳を身に得ていた。そしてさまざまな場所におもむいて、巧みな手だてで人々を導き、すべての仏の教えを知り、さとりの世界をきわめ尽し、はかり知れないほどの多くの世界で仏になる姿を示すのである。

 まず、兜率天において正しい教えをひろめ、次に、その宮殿から降りてきて母の胎内にやどる。やがて、右の脇から生れて七歩歩き、その身は光明に輝いて、ひろくすべての世界を照らし、数限りない仏の国土はさまざまに震動する。

そこで、菩薩自身が声高らかに、「 わたしこそは、この世においてこの上なく尊いものとなるであろう 」 と述べるのである。梵天や帝釈天は菩薩にうやうやしく仕え、天人や人々はみな敬う。そして菩薩は、算数・文芸・弓矢・乗馬などを学び、ひろく仙人の術をきわめ、また、数多くの書籍にも精通し、さらに、広場に出ては武芸の腕をみがき、宮中にあっては欲望の中に身をおく生活をするのである。

 やがて、老・病・死のありさまを見て世の無常をさとり、国や財宝や王位を捨てて、さとりへの道を学ぶために山に入る。そこで乗ってきた白馬と身につけていた宝冠や胸飾りを御者に託して王宮に帰らせ、美しい服を脱ぎ捨てて修行者の身なりとなり、髪をそって樹の下に姿勢を正して座り、六年の間、他の修行者と同じように苦行に励む。

 五濁の世に生れ、人々にならって煩悩に汚れた姿を示し、清らかな流れに身をきよめるのである。すると天人が樹の枝をさしのべて岸にあがらせる。美しい鳥は左右に取りまいてさとりの場までつきしたがい、天の童子は菩薩がさとりを開くめでたい前兆を感じて草をささげる。菩薩はその心を汲んで草を受け取り、菩提樹の下に敷き、その上に姿勢を正して座る。そして体から大いなる光りを放つ。

 それを見て、今まさに菩薩がさとりを開こうとすることを悪魔は知るのである。悪魔は一族を率いてきて、そのさとりの完成をさまたげようとする。しかし菩薩は智慧の力でみな打ち負かし、ついにすばらしい真理を得て、この上ないさとりを成しとげるのである。

 そのとき梵天や帝釈天が現れて、すべてのもののために説法するように願うので、仏となったこの菩薩はあちらこちらに足を運び、説法を始める。それはあたかも、太鼓をたたき、法螺貝を吹き、剣を執り、旗を立てて勇ましく進むように、また雷鳴がとどろき、稲妻が走り、雨が降りそそいで草木を潤すように、教えを説き、常に尊い声で世の人々の迷いの夢を覚すのである。

 その光明は数限りない仏の国々をくまなく照らし、すべての世界はさまざまに震動する。この光明は魔界にまで及び、魔王の宮殿をも揺り動かすのである。そこで悪魔どもはみな恐れをなして、降伏してしたがわないものはない。

 このようにして世間の誤った教えをひき裂き、悪い考えを除き去り、さまざまな煩悩を打ち払い、貪りの堀を取り壊すのである。正しい法の城を固く守って広く人々に法の門を開き、煩悩の汚れを洗いきよめ、ひろく仏の教えを説き述べて、人々を正しいさとりの道へ導き入れるのである。

 また、人里に入って食を乞い、さまざまな供養を受け、施しの相手となって人々に功徳を積ませ、教えを説くにあたっては笑みをたたえ、人々の悩みに応じてさまざまな教えの薬を与え、その苦しみを除く。さらにさとりを求める心を起こさせてはかり知れない功徳を与え、菩薩には仏となることを約束してさとりを得させるのである。


 菩薩は最後に世を去る姿を示すのであるが、その後も教えは人々を限りなく救うのである。さまざまな煩悩を除き、多くの善根を与え、余すことなく功徳をそなえていることは実にすぐれており、はかり知ることができない。

 菩薩はまた、多くの国々をめぐってまことの教えをひろめる。それは清らかで少しも汚れがない。幻を見せる術にたけたものが、男の姿や女の姿、その他さまざまな姿を思いのままに現すように、この菩薩たちも、すべての法に通じて尊い境地に達しているから、その教化は自由自在で、数限りない仏の国土に現れて、少しもおこたることなく、人々を哀れみいたわるのである。このようにすべての手だてを菩薩は余すことなくそなえている。


 また、仏の説かれた教えのかなめをきわめ尽しており、その名はすべての世界に至りとどいて人々を巧みに導く。数限りない仏がたは、みなともにこの菩薩をお守りになる。菩薩は仏のそなえておいでになる功徳をすべてそなえ、仏の清らかな行いをすべて行う。仏と同じように、その導きはよく行きとどいて、他の菩薩たちのためにすぐれた師となり、奥深い禅定と智慧で人々を導く。すべてのものの本質をきわめ、すべての人々のありさまを知り尽し、すべての世界のすがたを見とおしており、いたるところに身を現してさまざまな仏がたを供養するが、その速やかなことはちょうど稲妻のようである。

 教えを説くにあたり、何ものも恐れない智慧をそなえ、すべてのものは幻のようで、決して執着するべきでないという道理をさとり、さとりの道をさまたげる悪魔の網をひき裂き、さまざまな煩悩を断ち切っている。

 そして声聞や縁覚などの位を超えて、空・無相・無願三昧を得て、また人々を救う手だてを施して、声聞・縁覚・菩薩の三種の教えを説く。声聞や縁覚を導くためにひとまず世を去る姿を示すのであるが、菩薩自身としては、すでに修めるべき行もなければ求めるべきさとりもなく、起こすべき善もなければ滅ぼすべき悪もなく、みな平等であるという智慧を得て、すべての教えを記憶する力と数限りない三昧と、すべてを知り尽す智慧を欠けることなくそなえている。そこで説法のよりどころとなる禅定に入って、深く大乗の教えを知り、尊い華厳三昧を得て、すべての経典を説き述べるのである。

 また、菩薩自身は深い禅定に入り、今おいでになる数限りない仏がたをまたたく間にすべて見たてまつることができる。

 そして苦難に深く沈んでいるものも、仏道修行のできるものもできないものも、それらをみな救って、まことの道理を説き示す。しかも如来の自由自在な弁舌の智慧を得ており、またあらゆる言葉に通じていて、どのようなものをも教え導くのである。すでに世間の迷いを超え出て、その心は常にさとりの世界にあって、すべてのことがらについて自由自在である。さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。

 さらに、如来の奥深い教えをすべて身にそなえ、人々の仏種性を常に絶やさないように守り、大いなる慈悲の心を起して人々を哀れみ、その慈愛に満ちた弁舌によって智慧の眼を授け、地獄や餓鬼や畜生への道を閉ざして人間や天人の世界への門を開く。すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、親孝行な子が父母を敬愛するようである。まるで自分自身を見るように、さまざまな人々を見るのである。


 菩薩たちは、このようなすべての善根によって人々をさとりの世界に至らせ、仏がたのはかり知れない功徳をみな人々に与えるのである。その智慧の清く明らかなことは、とうてい思いはかることができない。

 このようなすぐれた菩薩たちが数限りなく集まり、この経を説かれた集いに臨んだわけである。

経の中心をなす部分

(3) そのとき釈尊は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられた。そこで阿難は釈尊のお心を受けて座から立ち、衣の右肩を脱いで地にひざまずき、うやうやしく合掌して釈尊にお尋ねした。

  「 世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。

わたしは今日までこのような尊いお姿を見たてまつったことがございません。そうです。世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、特にすぐれた禅定に入っておいでになります。また、煩悩を絶ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。

また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」


 そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。

  「 阿難よ、天人がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか」

 阿難が答えていう。

  「 天人が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます。

そこで釈尊は仰せになった。

  「 よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。

このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。だから、今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての天人や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。

 阿難よ、知るがよい。如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を得ておいでになるからである。阿難よ、わたしはこれからそなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい」

 阿難はお答えした。

  「 はい、喜んで聞かせていただきます 」

(4) 釈尊は阿難に仰せになった。

  「 今よりはかり知ることのできないはるかな昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に月光・栴檀香・善山王・須弥天冠・須弥等曜・月色・正念・離垢・無著・龍天・夜光・安明頂・不動地・瑠璃妙華・瑠璃金色・金蔵・焔光・焔根・地動・月像・日音・解脱華・荘厳光明・海覚神通・水光・大香・離塵垢・捨厭意・宝焔・妙頂・勇立・功徳持慧・蔽日月光・日月瑠璃光・無上瑠璃光・最上首・菩提華・月明・日光・華色王・水月光・除痴瞑・度蓋行・浄信・善宿・威神・法慧・鸞音・獅子音・龍音・処世という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。

(5) その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた 」

讃嘆の歌

世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、 太陽や月の光も宝玉の輝きも
その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、
さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
持戒と多聞と精進と禅定と智慧、
これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、
その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、
人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れな
いすぐれた功徳をそなえておいでになる。
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ
輝く光のお力は、世界中を震わせる。
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳は
さらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏がたの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、
涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜
びに満ちた清らかな心となリ、
わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたし
にとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。


(6) 釈尊が阿難に仰せになった。

  「 法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起 しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。

 わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた」

 釈尊はさらに言葉をお続けになる。

  「 そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、< どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう >といわれた。すると法蔵菩薩は、< いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います >と申しあげた。

 そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、

< たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう >と仰せになった。

そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。

 そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。

そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」

 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。

  「 ところで世自在王仏の国土での寿命は、いったいどれほどなのですか 」

釈尊が仰せになった。

  「 その仏の寿命は、四十二劫であった。さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、<世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました>と申しあげた。

 世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<そなたは その願をここで述べるがよい。今はそれを説くのにちょうどよい時である。すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起させ、喜びを与えるがよい。それを聞いた菩薩たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう>と仰せになった。

 そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます> といって、次のような願を述べたのである」

法蔵菩薩の48とおりの願い

(7)

(一) わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(四) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(五) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が宿命通を得ず、限りない過去のことまで知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(六)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、数限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(七) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない仏がたの説法を聞きとり、すべて記憶することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(八) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が他心通を得ず、数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(九) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十一) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十二) わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十三) わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十四) わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十五) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(十六) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、悪を表す言葉があるとでも耳にするようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十七) わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(十八) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

(十九) わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(二十) わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(二十一) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十二) ▼わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、その菩薩の願によってはその限りではありま せん。すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。 ▲

わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。 参考

(二十三) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けてさまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十四) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十五) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がこの上ない智慧について自由に説法することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十六) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強靭な体を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十七) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十八) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(二十九) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心にたもち、人々に説き聞かせて、心のままに弁舌をふるう智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三十) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三十一) わたしが仏になるとき、国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(三十二) わたしが仏になるとき、大地から天空に至るまで宮殿・楼閣・水の流れ・樹々や美しい花など、わたしの国のすべてのものが、みな数限りない、いろいろな宝とさまざまな香りでできていて、その美しく飾られたようすは天人や人々の世界に超えすぐれ、その香りはすべての世界に広がり、これをかいだ菩薩たちは、みな仏道に励むでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(三十三) わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(三十四) わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名を聞いて菩薩の無生法忍と、教えを記憶して決して忘れない力を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三十五) わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三十六) わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、命を終えて後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(三十七) わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の天人や人々が、わたしの名を聞いて、地に伏してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら、天の神々や世の人々は残らずみな敬うでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(三十八) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が衣服を欲しいと思えば、思いのままにすぐ現れ、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけているでしょう。裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(三十九) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が思いのままにすべの数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願い通り、くもりのない鏡に顔を映すように、宝の樹々の中にそれらをすべて照らし出してはっきりと見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十一) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(四十二) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな清浄解脱三昧を得るでしょう。そしてこの三昧に入って、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十三) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十四) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、喜びいさんで菩薩の修行に励み、さまざまな功徳を欠けることなく身にそなえるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十五) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな普等三昧を得るでしょう。そしてこの三昧に入って、仏になるまでの間、常に数限りないすべての仏がたを見たてまつることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十六) わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩は、その願いのままに聞きたいと思う教えをおのずから聞くことができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

(四十七) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに不退転の位にいたることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(四十八) わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(8)釈尊が阿難に仰せになる。

「 そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように 説いた 」

重ねて誓う歌

わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、
誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、
この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、
煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、
迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべ
ての世界に行きわたり、
太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、
願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた
仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、
空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。

法蔵修行

(9) 釈尊が阿難に仰せになる。

  「 法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、< 必ずこの上ないさとりを開くであろう > とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。

 阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。

 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。

 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。

 その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。

 あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」

(10) 阿難が釈尊にお尋ねした。

  「 法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」

釈尊が阿難に仰せになる。

  「 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」

阿難がさらにお尋ねした。

  「 その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか 」

釈尊が仰せになる。

  「 さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・メノウなどの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。

  そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい、そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」

 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。

  「 世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界や刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか 」

 すると釈尊が阿難に仰せになった。

  「 では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」

 阿難が釈尊にお答えする。

  「 それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」

 釈尊が仰せになる。

  「 それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」

 阿難が申しあげる。

  「 世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます 」

光明無量 12光仏

(11) さて、釈尊が阿難に仰せになる。

  「 無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。

 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。このため無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名づけるのである。

 この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。

 無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」

釈尊が仰せになる。

  「 無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」

(12) 釈尊がさらに阿難に仰せになる。

  「 無量寿仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。そなたもそれを知ることはできないだろう。たとえ、すべての世界のものがみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない。その国の声聞・菩薩・天人・人々の寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない。また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない。それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである 」

(13) 釈尊が続けて仰せになる。

  「 無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか 」

 阿難がお答えする。

  「 その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません 」

 釈尊が阿難に仰せになる。

  「 目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。

(14) またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・水晶の樹・珊瑚の樹・碼碯の樹・硨磲の樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。

 金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で碼碯の葉・花・実をつけたもの、碼碯の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。

 あるいは、硨磲の樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、碼碯の花、硨磲の実でできている。ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、硨磲の花、金の実でできている。ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、碼碯の小枝、硨磲の葉、金の花、銀の実でできている。ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、碼碯の枝、硨磲の小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、硨磲の枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。ある宝樹は碼碯の根、硨磲の幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。ある宝樹は硨磲の根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、碼碯の実でできている。

 これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。

(15) また、無量寿仏の国の菩提樹は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼や持海輪宝で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。

 そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩 みわずらうことがないのである。

 阿難よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍・柔順忍・無生法忍が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願・明了願・堅固願・究竟願と呼ばれる本願の力とによるのである 」

 続けて釈尊が阿難に仰せになる。

  「 世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王の聞く音楽から他化自在天までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く冴えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。

(16) また、その国の講堂・精舎・宮殿・楼閣などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。

 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。

 それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水の実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている。金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。

 水晶の池には底に瑠璃の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。珊瑚の池には底に琥珀の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。硨磲の池には底に碼碯の砂があり、碼碯の池には底に硨磲の砂がある。白玉の池には底に紫金の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。

 もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。

 その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。

 その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、さまざまな神通智慧の声、無所作の声、不起滅の声、さらに無生法忍の声から甘露灌頂の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。

 そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄・離欲・寂滅・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。

 このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。

(17) 阿難よ、無量寿仏の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天のようにおのずから得ることができるのである。    もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。

 まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである 」

(18) 釈尊が阿難に仰せになる。

  「 さて、たとえば世の中の貧しい乞人を王のそばに並べるとしたら、その姿かたちがはたしてくらべものになるだろうか」

 阿難が申しあげる。

  「 いいえ、そのものを王のそばに並べたときには、その弱々しく醜いことはまったく話にならないほどであります。そのわけは、貧しい乞人は最低の暮しをしているものであり、服は身を包むのに十分でなく、食べものは何とか命をささえる程度しかなく、飢えと寒さに苦しんでおり、ほとんど人間らしい生活をしていないからであリます。

  すべては、過去の世に功徳を積まなかったからです。財をたくわえて人に施さず、裕福になるほどますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。

  こうしてたくわえた財産も、命が終わればはかなく消え失せ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないで、むなしく他人のものとなります。たのみとなる善い行いはしておらず、たよりとなる功徳もありません。そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生れて長い間苦しみ、それが終ってやっと人間の世界に生れても、身分が低く、最低の生活を営み、どうにか人間として暮らしているようなことです。

 それに対して世の中の王が人々の中でもっとも尊ばれるわけは、すべて過去の世に功徳を積んだからであります。慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救い、まごころをこめて善い行いに努め、人と逆らい争うようなことがなかったのです。そこで、命が終ればその徳によって善い世界にのぼることができ、天人の中に生れて安らぎや楽しみを受けるのであります。さらに、過去の世に積んだ善い行いの徳は尽きないので、こんどは人間となって王家に生れ、そのためおのずから尊ばれる身となるのです。その行いは正しく、姿かたちは美しくととのい、多くの人々に敬い仕えられ、美しい衣服やすばらしい食事が思いのままに得られるのであり、それはまったく過去の世に積んだ功徳によるのであります 」

(19) 釈尊が阿難に仰せになった。

  「 まことにそなたのいう通りである。しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。その帝釈天であっても、他化自在天の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千億倍ともはかり知ることができないほどである 」

(20) 釈尊が続けて仰せになる。

  「 無量寿仏の国の天人や人々が用いる衣服・食べものや飲みもの・香り高い花・宝玉の飾り・天蓋・幡や、美しい音楽や、その身をおく家屋・宮殿・楼閣などは、すべて天人や人々の姿かたちに応じて高さや大きさがほどよくととのう。それらは、望みに応じて一つの宝や二つの宝、あるいは数限りない宝でできており、思いのままにすぐ現れる。また多くの宝でできた美しい布がひろく大地に敷かれていて、天人や人々はみなその上を歩むのである。

  その国には数限りない宝の網がおおいめぐらされており、それらはみな、金の糸や真珠や、その他、実にさまざまな美しく珍しい宝で飾られている。その網はあたり一面にめぐり、宝の鈴を垂れており、それがまばゆく光り輝くようすはこの上なくうるわしい。そして、すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない。それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる。

  その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧に入ったようにとても心地よくなるのである。

(21) また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す。それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。このようにして、昼夜六時のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。

 またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくす べてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」


仏説無量寿経 上巻

転載 妙念寺 藤本 誠 氏


出典:本願寺出版社発行 浄土三部経(現代語版)初版。

著作権:浄土真宗本願寺派。聖典編纂委員会
注意:出典、著作権表示の削除、改変、営利使用禁止


参考

*太字の部分は、親鸞聖人が浄土真宗の宗義を顕す為に独自の訓点によって読まれたところです。