「自利・利他」の版間の差分
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曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→[[他利利他の深義]]〉、親鸞はこの意を承けて、自利を[[自力]]、利他を[[他力]]の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で[[自利真実]]、後者を他力の真実心の意で[[利他真実]]とし、合わせて二利真実という。([[愚禿下#no48|愚禿下 P.519]]) (仏教学辞典) | 曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→[[他利利他の深義]]〉、親鸞はこの意を承けて、自利を[[自力]]、利他を[[他力]]の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で[[自利真実]]、後者を他力の真実心の意で[[利他真実]]とし、合わせて二利真実という。([[愚禿下#no48|愚禿下 P.519]]) (仏教学辞典) | ||
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+ | 御開山は『観経疏』の至上心釈に、 | ||
+ | :また真実に二種あり。一つには[[自利真実]]、二つには[[利他真実]]なり。([[観経疏 散善義 (七祖)#P--456|散善義 P.456]]) | ||
+ | とあるのだが、自利真実についての文はあるのだが利他真実を示す文がないので、至誠心釈に利他真実があらわされていると見られ阿弥陀仏の利他真実をあらわす文として至誠心釈の訓点を変えて読まれた。→[[『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引#sijyousin|至誠心釈の利他真実の読み方]]<br /> | ||
+ | このように至誠心に自力と他力の二種をみられたのは法然聖人が『三部経釈』で、 | ||
+ | :真実に自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」{散善義}といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。 | ||
+ | : ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり。 | ||
+ | と、至誠心に総と別を分けて自力(自利)・他力(利他)として解釈されていた意を承けておられるのであろう。 | ||
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:→[[他利利他の深義]] | :→[[他利利他の深義]] | ||
:→[[上求菩提・下化衆生]] | :→[[上求菩提・下化衆生]] |
2018年6月25日 (月) 19:16時点における版
じり・りた
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
じり 自利(利他)
この両者を合わせて二利といい、両者を完全に両立させた勝れた状態が大乗仏教の目的とする仏の世界で、これを自利利他円満という(これに対して小乗は自利にかたよっているとされる)。
曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→他利利他の深義〉、親鸞はこの意を承けて、自利を自力、利他を他力の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で自利真実、後者を他力の真実心の意で利他真実とし、合わせて二利真実という。(愚禿下 P.519) (仏教学辞典)
御開山は『観経疏』の至上心釈に、
とあるのだが、自利真実についての文はあるのだが利他真実を示す文がないので、至誠心釈に利他真実があらわされていると見られ阿弥陀仏の利他真実をあらわす文として至誠心釈の訓点を変えて読まれた。→至誠心釈の利他真実の読み方
このように至誠心に自力と他力の二種をみられたのは法然聖人が『三部経釈』で、
- 真実に自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」{散善義}といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。
- ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり。
と、至誠心に総と別を分けて自力(自利)・他力(利他)として解釈されていた意を承けておられるのであろう。