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「凡数の摂」の版間の差分

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:煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
 
:煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
 
:この人はすなはち'''凡数の摂'''にあらず、これは人中の分陀利華なり。この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。([[二門#P--550|二門 P.550]])
 
:この人はすなはち'''凡数の摂'''にあらず、これは人中の分陀利華なり。この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。([[二門#P--550|二門 P.550]])
とされ、本願の信を獲た者はすでに凡夫の仲間ではないと讃嘆する意味に転じておられる。 →[[五種の嘉誉]]
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とされ、本願の信を獲た者はすでに凡夫の仲間ではない、仏に成ることの決定した正定聚の者だと讃嘆する意味に転じておられる。
 
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:→[[五種の嘉誉]]
→[[便同弥勒]]
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2018年5月21日 (月) 15:49時点における版

ぼんじゅのしょう

 凡夫の仲間。(信巻 P.216, 二門 P.550序分義 P.393)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「信巻」と『入出二門偈』では意味が逆転している事に注意。林遊

信巻では「序分義」を引いて、

「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」(信巻 P.216)

のように、煩悩に苦悩している者を「凡数の摂」(凡夫の仲間(数)におさまる(摂)という意)とし、その凡数の者を摂取するのが本願であると示される。 →

しかし、『入出二門偈』では本願により信を獲た凡夫は、

煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。(二門 P.550)

とされ、本願の信を獲た者はすでに凡夫の仲間ではない、仏に成ることの決定した正定聚の者だと讃嘆する意味に転じておられる。

五種の嘉誉
便同弥勒