「三心」の版間の差分
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;無量寿経と観無量寿経の三心 | ;無量寿経と観無量寿経の三心 | ||
− | 『観経』には、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれ「三心を具するものは、かならずかの国に生ず (具三心者 必生彼国) | + | 『観経』には、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれ「三心を具するものは、かならずかの国に生ず (具三心者 必生彼国)」([[観経#P--108|観経 P.108]]) と《必》の字がある。この「かならずかの国に生ず」の《必》の語に古くから浄土願生者が深い関心を持って来たところである。 |
− | さて、『大経』の第十八願には「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲へ (至心信楽欲生我国) | + | さて、『大経』の第十八願には「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲へ (至心信楽欲生我国)」([[大経上#18gan|大経 P.18]]) とある。この文の当面では、至心信楽は、欲生の修飾語であって三心(信)にはみえない。この至心信楽欲生を『観経』の三心から逆観して、至心と信楽と欲生の三心(信)であるとみられ、『大経』の「至心信楽欲生」を開いて具体的に三心として説かれているのが『観経』の三心であるとされたのは法然聖人であった。至心は至誠心、信楽は深心、欲生我国は廻向発願心であるとされたのである。以下は法然聖人の『観経釈』から当該部分を引いておく。 |
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:爾者経云。一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国。凡三心通万行故、善導和尚釈此三心、以正行雑行二行。 | :爾者経云。一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国。凡三心通万行故、善導和尚釈此三心、以正行雑行二行。 | ||
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:以之案之、必生彼国之言可有深意歟。必者対不必言也。修正行者、必生彼国、修雑行者、不必生彼国。 通人天等故。 | :以之案之、必生彼国之言可有深意歟。必者対不必言也。修正行者、必生彼国、修雑行者、不必生彼国。 通人天等故。 | ||
::しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。 | ::しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。 | ||
− | ::{{DotUL|いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり}}。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ) | + | ::{{DotUL|いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり}}。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべきか。必は不必に対する言なり。正行を修す者は、必ず彼の国に生ず。雑行を修する者は必ずしも彼の国に生ぜず、人・天等に通ずるが故に。[[hwiki:観無量寿経釈#mk-kangyou2daikyou|(*)]] |
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− | + | このように、第十八願の至心・信楽・欲生を、『観経』の至誠心・深心・回向発願心と対応づけされたのであった。『大経』には至心信楽欲生の様相は説かれていないのだが、『観経』の三心と対応することにより、そして善導大師の著された『観経疏』の釈によって『大経』の三心(信)の相を洞察されたのである。<br /> | |
本来ちがう経典をこのようにみることが出来るのは天才の法然聖人のなせる技である。なお法然聖人は、『西方指南抄』中本「十七条御法語」によれば、 | 本来ちがう経典をこのようにみることが出来るのは天才の法然聖人のなせる技である。なお法然聖人は、『西方指南抄』中本「十七条御法語」によれば、 | ||
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と、至誠心・深心・回向発願心の中で、深心には〔なんまんだぶ〕の行が説かれているので深心が中心であるとみられていた。『大経』では至心、信楽、欲生の三心(信)の中の信楽である。<br /> | と、至誠心・深心・回向発願心の中で、深心には〔なんまんだぶ〕の行が説かれているので深心が中心であるとみられていた。『大経』では至心、信楽、欲生の三心(信)の中の信楽である。<br /> | ||
− | 御開山は、この『観経」の三心を深心一心に総摂し、その深心を展開されたのが『大経』の三信(心)であるとみられたのであろう。 そして『大経』の信楽を中心として至心と欲生を洞察し「如来よりたまはりたる信心」として展開されるのが「信巻」の三心釈である。そしてこの三心(信) | + | 御開山は、この『観経」の三心を深心一心に総摂し、その深心を展開されたのが『大経』の三信(心)であるとみられたのであろう。 そして『大経』の信楽を中心として至心と欲生を洞察し「如来よりたまはりたる信心」として展開されるのが「信巻」の三心釈である。そしてこの三心(信)を信楽一心に総摂し『浄土論』の「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて (世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来)」の「一心の華文」であるといわれるのであった。 |
このようにみてくると、単純に平面的に『観経』の三心を自力とし、『大経」の三心(信)を他力とするのは如何かと思ふ。『観経』も『小経』も、そこに阿弥陀如来の本願があらわされているときは真実なのである。御開山が「信巻」で、第十八願の三心の解釈をされる前段に、善導大師の『観経疏』の 至誠心釈、 深心釈、回向発願心釈を引文されておられるのもその意であろう。もちろん、このような見方は聖人といわれる方だけができることであって、我々は御開山の指南にしたがってお聖教を楽しむだけではある。 | このようにみてくると、単純に平面的に『観経』の三心を自力とし、『大経」の三心(信)を他力とするのは如何かと思ふ。『観経』も『小経』も、そこに阿弥陀如来の本願があらわされているときは真実なのである。御開山が「信巻」で、第十八願の三心の解釈をされる前段に、善導大師の『観経疏』の 至誠心釈、 深心釈、回向発願心釈を引文されておられるのもその意であろう。もちろん、このような見方は聖人といわれる方だけができることであって、我々は御開山の指南にしたがってお聖教を楽しむだけではある。 |
2018年4月5日 (木) 09:55時点における版
- 無量寿経と観無量寿経の三心
『観経』には、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれ「三心を具するものは、かならずかの国に生ず (具三心者 必生彼国)」(観経 P.108) と《必》の字がある。この「かならずかの国に生ず」の《必》の語に古くから浄土願生者が深い関心を持って来たところである。
さて、『大経』の第十八願には「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲へ (至心信楽欲生我国)」(大経 P.18) とある。この文の当面では、至心信楽は、欲生の修飾語であって三心(信)にはみえない。この至心信楽欲生を『観経』の三心から逆観して、至心と信楽と欲生の三心(信)であるとみられ、『大経』の「至心信楽欲生」を開いて具体的に三心として説かれているのが『観経』の三心であるとされたのは法然聖人であった。至心は至誠心、信楽は深心、欲生我国は廻向発願心であるとされたのである。以下は法然聖人の『観経釈』から当該部分を引いておく。
- 爾者経云。一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国。凡三心通万行故、善導和尚釈此三心、以正行雑行二行。
- 今此経三心、即開本願三心。 爾故至心者至誠心也、信楽者深心、欲生我国者廻向発願心也。
- 以之案之、必生彼国之言可有深意歟。必者対不必言也。修正行者、必生彼国、修雑行者、不必生彼国。 通人天等故。
- しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。
- いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべきか。必は不必に対する言なり。正行を修す者は、必ず彼の国に生ず。雑行を修する者は必ずしも彼の国に生ぜず、人・天等に通ずるが故に。(*)
このように、第十八願の至心・信楽・欲生を、『観経』の至誠心・深心・回向発願心と対応づけされたのであった。『大経』には至心信楽欲生の様相は説かれていないのだが、『観経』の三心と対応することにより、そして善導大師の著された『観経疏』の釈によって『大経』の三心(信)の相を洞察されたのである。
本来ちがう経典をこのようにみることが出来るのは天才の法然聖人のなせる技である。なお法然聖人は、『西方指南抄』中本「十七条御法語」によれば、
- 又云く、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。(*)
と、至誠心・深心・回向発願心の中で、深心には〔なんまんだぶ〕の行が説かれているので深心が中心であるとみられていた。『大経』では至心、信楽、欲生の三心(信)の中の信楽である。
御開山は、この『観経」の三心を深心一心に総摂し、その深心を展開されたのが『大経』の三信(心)であるとみられたのであろう。 そして『大経』の信楽を中心として至心と欲生を洞察し「如来よりたまはりたる信心」として展開されるのが「信巻」の三心釈である。そしてこの三心(信)を信楽一心に総摂し『浄土論』の「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて (世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来)」の「一心の華文」であるといわれるのであった。
このようにみてくると、単純に平面的に『観経』の三心を自力とし、『大経」の三心(信)を他力とするのは如何かと思ふ。『観経』も『小経』も、そこに阿弥陀如来の本願があらわされているときは真実なのである。御開山が「信巻」で、第十八願の三心の解釈をされる前段に、善導大師の『観経疏』の 至誠心釈、 深心釈、回向発願心釈を引文されておられるのもその意であろう。もちろん、このような見方は聖人といわれる方だけができることであって、我々は御開山の指南にしたがってお聖教を楽しむだけではある。
なお、古くから「三経一致門」の立場から、『大経』は本願を説く経であるから《薬》にたとえられ、『観経』は救われがたい機の真実をあらわす経であるから《病気》にたとえ、『阿弥陀経』は機法合説といわれ、六方恒沙の諸仏の証誠は《医者》にたとえた法話がなされてきたものである。 ともあれ、浄土三部経には、「三経差別門」と「三経一致門」の両方の見方があるが、要するに、本願を信じさせ、なんまんだぶを称えさせ、必ず往生させ仏たらしめようという阿弥陀如来の本願力回向のご法義であった。