「畢竟涅槃にあらざる」の版間の差分
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智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず、という「[[無住処涅槃]]」をあらわそうとされたのである。 | 智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず、という「[[無住処涅槃]]」をあらわそうとされたのである。 | ||
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2020年10月16日 (金) 13:23時点における版
ひっきょうねはんにあらざる
如来は絶えず
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 『涅槃経』の原文と訓:
- 以是義故、如來實不畢竟涅槃。
- この義をもっての故に、如来は実に畢竟涅槃せず。
- 是名菩薩 修大涅槃微妙經典 具足成就 第七功徳。
- これを菩薩、大涅槃微妙の経典を修して、第七の功徳を具足し成就すと名づく。(*)
- 御開山の訓:
如来実不畢竟涅槃と次の文である是名菩薩を合わせ、修大涅槃微妙経典 具足成就 第七功徳、以下を略し(*)
- 以是義故、如来実不畢竟涅槃。是名菩薩。
- この義をもつての故に、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく。(真巻 P.348)
と訓じられた。当面は「如来は実に畢竟涅槃せず」と如来常住をいう文を、如来は涅槃にあらざると訓じて、涅槃には止まっていないと読まれた。如来は絶えず従果還因の菩薩として生死の世界で動的に活動する意をあらわすために、このように読まれたのである。
智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず、という「無住処涅槃」をあらわそうとされたのである。