「三忍」の版間の差分
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なお善導大師は韋提希が三忍を得たのは、第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時であるとされていた。「得益分」で、 | なお善導大師は韋提希が三忍を得たのは、第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時であるとされていた。「得益分」で、 | ||
:四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。 [[観経疏 散善義 (七祖)#得益分|散善義 P.501]]) | :四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。 [[観経疏 散善義 (七祖)#得益分|散善義 P.501]]) | ||
− | と、無生の益(無生法忍)を得たのは見仏の時であるとされていた。『観経』とは仏を観(み) | + | と、無生の益(無生法忍)を得たのは見仏の時であるとされていた。『観経』とは仏を観(み)て往生を決定することを主題として説く経であるからである。見仏とは[[授記]]であるからである。<br /> |
ただし「流通分」に於いて、 | ただし「流通分」に於いて、 | ||
:上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 ([[観経疏 散善義 (七祖)#名号付属|散善義 P.500]]) | :上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 ([[観経疏 散善義 (七祖)#名号付属|散善義 P.500]]) |
2018年2月13日 (火) 05:23時点における版
さんにん
忍とは
Ⅰ.三法忍(さんぼうにん)。音響忍・柔順忍・無生法忍をいう。→音響忍、柔順忍、無生法忍 (大経 P.34, 行巻 P.206,化巻 P.377、讃弥陀偈 P.165、安楽集 P.284、定善義 P.407)
Ⅱ.他力の信(無生法忍)のもつ三つの徳義。(信巻 P.261)
- ①
喜忍 。歓喜 のおもい。 - ②
悟忍 。仏智を領得すること。 - ③
信忍 。仏力を信ずる。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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忍とは
さんにん 三忍
Ⅰ 他力信心(無生法忍)にそなわる三つの徳義。
- ① 喜忍。(歓喜の思い。法を聞き、安心してよろこぶ心)、
- ② 悟忍。(仏智を領得すること。信心のいわれをはっきりと知る心)
- ③ 信忍。(仏力を信じること。本願を疑いなく信じる心)
の三。「序分義」には、
- この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく」(信巻 P.261)、
「正信偈」には、
- 「慶喜の一念相応してのち、韋提と等しく三忍を獲」(*)
とある。
Ⅱ 音響忍、柔順忍、無生法忍の三法忍のこと。(浄土真宗辞典)
御開山は「序分義」を引いて「華座観」における韋提希の得忍を、
- 「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。(信巻 P.261)
とされ、三忍は凡夫である十信位で得られる忍(認)であると領解されておられた。いわゆる『大経』で説かれる、音響忍、柔順忍、無生法忍(大経 P.34) は浄土へ往生して得られる「忍」であって、現世で得られる忍は、喜忍、悟忍、信忍の三忍であるとされたのであろう。
なお善導大師は韋提希が三忍を得たのは、第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時であるとされていた。「得益分」で、
- 四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。 散善義 P.501)
と、無生の益(無生法忍)を得たのは見仏の時であるとされていた。『観経』とは仏を観(み)て往生を決定することを主題として説く経であるからである。見仏とは授記であるからである。
ただし「流通分」に於いて、
- 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 (散善義 P.500)
と、『観経』は「仏の本願に望」めば、なんまんだぶ(称名)を勧める経典であるとされたのであった。観(見)から聞への、『観経』の眼見から『大経』の第十八願の「乃至十念」の称えて聞く「聞見」への善導大師の指南であった。
なお善導大師は韋提希が三忍を得たのは、第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時であるとされていた。「得益分」で、
- 四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。 (散善義 P.501)
と、無生の益(無生法忍)を得たのは見仏の時であるとされていた。『観経』とは仏を観(み)て往生を決定することを主題として説く経であるからである。ただ「流通分」に於いて、
- 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 (散善義 P.500)
と、『観経』は「仏の本願に望」めば、なんまんだぶ(称名)を勧める経典であるとされたのであった。観(見)から聞への、『観経』から『大経』の第十八願の「乃至十念」への眼見から「聞見」への善導大師の指南であった。
要するに喜忍、悟忍、信忍の三忍とは、なんまんだぶと称える「行」の中に内包されていることを、
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻 P.146)
と「正念」とされたのであった。