「慧遠」の版間の差分
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− | Ⅰ <kana>廬山(ろざん)</kana>の慧遠。 (334-416)。 <kana>雁門(がんもん)</kana> (現在の山西省代県) の出身。 はじめ<kana>道安(どうあん)</kana>に学び、のち南方の廬山に入り、百余人の同志と<kana>白蓮社(びゃくれんしゃ)</kana>を結成して 『<kana>般舟(はんじゅ)</kana><kana>三昧経(ざんまいきょう)</kana>』に基づく念仏三昧を修した。 時の権力者、<kana>桓玄(かんげん)</kana>が仏教教団を王権のもとに従属させようとしたのに対して、『<kana>沙門(しゃもん)</kana><kana>不敬(ふきょう)</kana><kana>王者(おうじゃ)</kana>論』を著して、仏教が世俗の礼敬を超えること、王権と原理を異にするものであることを主張した。 廬山流念仏の祖。 | + | Ⅰ <kana>廬山(ろざん)</kana>の慧遠。 (334-416)。 <kana>雁門(がんもん)</kana> (現在の山西省代県) の出身。 はじめ<kana>道安(どうあん)</kana>に学び、のち南方の廬山に入り、百余人の同志と[[jds:白蓮社|<kana>白蓮社(びゃくれんしゃ)</kana>]]を結成して 『<kana>般舟(はんじゅ)</kana><kana>三昧経(ざんまいきょう)</kana>』に基づく念仏三昧を修した。 時の権力者、<kana>桓玄(かんげん)</kana>が仏教教団を王権のもとに従属させようとしたのに対して、『<kana>沙門(しゃもん)</kana><kana>不敬(ふきょう)</kana><kana>王者(おうじゃ)</kana>論』を著して、仏教が世俗の礼敬を超えること、王権と原理を異にするものであることを主張した。 廬山流念仏の祖。 |
Ⅱ <kana>浄影(じょうよう)</kana><kana>寺(じ)</kana>慧遠 (523-592)。 <kana>敦煌(とんこう)</kana>の人。 俗姓は李氏。 十三歳のとき出家し、二十歳のとき大統の<kana>法上(ほうじょう)</kana>を和上として<kana>具足戒(ぐそくかい)</kana>を受けた。 <kana>北周(ほくしゅう)</kana>の武帝の廃仏の際、ただ一人帝に極諫をおこない、汲郡の西山に隠棲した。 のち<kana>隋(ずい)</kana>の文帝に遇されて浄影寺に移り、講説を主として、<kana>地論(じろん)</kana>宗南道派の教学を大成した。 著書に 『<kana>大乗(だいじょう)</kana><kana>義章(ぎしょう)</kana>』二十巻 『維摩義記』八巻 『涅槃経義記』十巻 『観経義疏』二巻などがある。 | Ⅱ <kana>浄影(じょうよう)</kana><kana>寺(じ)</kana>慧遠 (523-592)。 <kana>敦煌(とんこう)</kana>の人。 俗姓は李氏。 十三歳のとき出家し、二十歳のとき大統の<kana>法上(ほうじょう)</kana>を和上として<kana>具足戒(ぐそくかい)</kana>を受けた。 <kana>北周(ほくしゅう)</kana>の武帝の廃仏の際、ただ一人帝に極諫をおこない、汲郡の西山に隠棲した。 のち<kana>隋(ずい)</kana>の文帝に遇されて浄影寺に移り、講説を主として、<kana>地論(じろん)</kana>宗南道派の教学を大成した。 著書に 『<kana>大乗(だいじょう)</kana><kana>義章(ぎしょう)</kana>』二十巻 『維摩義記』八巻 『涅槃経義記』十巻 『観経義疏』二巻などがある。 |
2019年11月29日 (金) 14:50時点における版
えおん
Ⅰ
Ⅱ
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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