「業事成弁」の版間の差分
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:『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知ることを須ゐず。「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ず るものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。([[浄土論註 (七祖)#憶念の多少を数えられるのか|論註P.99]]) | :『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知ることを須ゐず。「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ず るものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。([[浄土論註 (七祖)#憶念の多少を数えられるのか|論註P.99]]) | ||
− | + | ある十という数はただ「業事成弁」をあらわしているという語が出拠。『観経』の、 | |
:かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。 ([[観経#P--115|観経 P.115]]) | :かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。 ([[観経#P--115|観経 P.115]]) | ||
の十念念仏を『無量寿経』第十八願の乃至十念と合わせて、業事成弁としている。もっとも御開山は法然聖人が乃至十念という数に依拠するのではないという念仏往生の願として第十八願をみておられた。([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1214|選択本願念仏集 P.1214]]) | の十念念仏を『無量寿経』第十八願の乃至十念と合わせて、業事成弁としている。もっとも御開山は法然聖人が乃至十念という数に依拠するのではないという念仏往生の願として第十八願をみておられた。([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1214|選択本願念仏集 P.1214]]) |
2018年2月7日 (水) 01:41時点における版
ごうじじょうべん
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『論註』八番問答に、
- 『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知ることを須ゐず。「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ず るものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。(論註P.99)
ある十という数はただ「業事成弁」をあらわしているという語が出拠。『観経』の、
- かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。 (観経 P.115)
の十念念仏を『無量寿経』第十八願の乃至十念と合わせて、業事成弁としている。もっとも御開山は法然聖人が乃至十念という数に依拠するのではないという念仏往生の願として第十八願をみておられた。(選択本願念仏集 P.1214)