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[[曇鸞]]は、[[浄土]]への往生は生滅を完全に超えた[[法性]]無生のことわりにかなった生([[無生の生]])であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるとする。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。<br />
 
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これに対して親鸞は、阿弥陀仏の浄土を完全に[[煩悩]]が[[寂滅]]した無為涅槃界とし、[[現生]]の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとする往生即成仏([[難思議往生]])を説いた。「信巻」には
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なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても
 
なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても
 
:「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」[[浄土論註_(七祖)#P--126|七p.126]]  
 
:「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」[[浄土論註_(七祖)#P--126|七p.126]]  
と、<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>の喩えによって、浄土を実体的に見る[[下品]]の凡夫の往生を遮していない。古来から「凡情を遮せず」という所以である。<br />
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と、<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>の喩えによって、浄土を実体的に見る[[下品]]の凡夫の往生を遮していない。古来から「[[凡情を遮せず]]」という所以である。<br />
また、浄土の徳の一つに不改の義があり、「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」([[顕浄土真仏土文類#no24|真仏土巻p.358で引文]]) と、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。なお、ここの、必然(ひつねん)の意から、自然(自ずからしかる)の然の語を、
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と、阿弥陀如来の浄土は、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。<br />
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:「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
 
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とされたのであろう。
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と、阿弥陀如来の本願を信受したものは、本願の自ずからのはたらきとして往生成仏は「しからしむ」と読まれたのであろう。
  
 
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2017年11月5日 (日) 04:58時点における版

往生

 阿弥陀仏浄土れることをいう。→補註2

 →往生一定

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

浄土真宗辞典より

 他の世界へ往(ゆ)き生まれること。浄土教においては阿弥陀仏浄土に往き生まれることをいう。往生浄土の略。
曇鸞は、浄土への往生は生滅を完全に超えた法性無生のことわりにかなった生(無生の生)であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるとする。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。
これに対して親鸞は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩寂滅した無為涅槃界とし、現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとする往生即成仏(難思議往生)を説いた。「信巻」には

「念仏の衆生は横超金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」p.264
「大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」p.254

等とある。また「証巻」には

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」p.307

とあり、現生に正定聚についたものが必ず滅度に至ることが述べられている。(以上浄土真宗辞典より引用)


 往も行も、ゆく・いくを意味する漢字だが、往はこちらからあちらへ往くという意味であり、浄土真宗では次元を横超することを往生の意であるとする。これに対し行は止の反対語で進むとか歩いて行くという同一次元での移動を意味する語である。この横超を意味する往の語の意から、こちらの娑婆からあちらの浄土へ往き生まれることを往生としたのである。法然聖人は『往生要集大綱』第七に「言往生者 捨此往彼 蓮華化生(往生と言うは、(ここ)を捨て(かなた)に往きて、蓮華に化生するなり)」(*)とされていた。もちろん、往生とは最古層といわれる仏典のスッタニパータの第1偈に「この世とかの世とをともに捨て去る」とあるように、輪廻としての生まれ変わりの生ではなく生死を超えているさとりの(さかい)へ往くことをいう。浄土真宗の浄土とは、阿弥陀如来の無為(むい)涅槃界(ねはんがい)のさとりが、動的な活動を示す無住処涅槃であり往相還相の躍動する淵源を浄土というのである。
なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても

「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」七p.126

と、氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)の喩えによって、浄土を実体的に見る下品の凡夫の往生を遮していない。古来から「凡情を遮せず」という所以である。
また、浄土の徳の一つに不改の義があり、

「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」(真仏土巻p.358で引文)

と、阿弥陀如来の浄土は、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。
なお、ここの、必然(ひつねん)の意から、自然(自ずからしかる)の然の語を、

「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。

と、阿弥陀如来の本願を信受したものは、本願の自ずからのはたらきとして往生成仏は「しからしむ」と読まれたのであろう。

自然

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