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 浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るということ。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。<br />
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 浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るということ。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられていた。<br />
これに対して御開山は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩が寂滅した無為涅槃界とし、現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとされた。「信巻」には、
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これに対して御開山は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩が寂滅した[[無為涅槃]]界とし、真実信心の念仏の行者は現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとされた。<br />
:念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。([[信巻末#no103|信巻 P.264]])
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「信巻」真仏弟子釈には、
と説かれている。
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:まことに知んぬ、[[弥勒|弥勒大士]]は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、[[竜華三会]]の暁、まさに無上覚位を極むべし。
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:念仏の衆生は[[横超の金剛心]]を窮むるがゆゑに、[[臨終…|臨終]]一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに[[便同]]といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち[[喜悟信の忍|喜・悟・信の忍]]を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。([[信巻末#no103|信巻 P.264]])
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と述べられている。そして「和讃」でも、
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:[[五十六億七千万歳|五十六億七千万]]
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: 弥勒菩薩はとしをへん
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: まことの信心うるひとは
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: このたびさとりをひらくべし ([[正像末和讃#no26|正像 P.604]])
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:[[念仏往生の願]]により
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: [[等正覚]]にいたるひと
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: すなはち弥勒におなじくて
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: 大般涅槃をさとるべし ([[正像末和讃#no27|正像 P.604]])
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と、五十六億七千万年後にさとりを開くとされる弥勒菩薩に先立って、阿弥陀仏の本願力によって大般涅槃をさとらしめられるとされていた。
  
 
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2018年5月22日 (火) 14:33時点における版

おうじょう-そく-じょうぶつ

 浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るということ。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられていた。
これに対して御開山は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩が寂滅した無為涅槃界とし、真実信心の念仏の行者は現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとされた。
「信巻」真仏弟子釈には、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。(信巻 P.264)

と述べられている。そして「和讃」でも、

五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし (正像 P.604)
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし (正像 P.604)

と、五十六億七千万年後にさとりを開くとされる弥勒菩薩に先立って、阿弥陀仏の本願力によって大般涅槃をさとらしめられるとされていた。

往生