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 おりに触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な感歎をあらわす意。一説に「ああ、われ」という意味だという。現代では、気の毒とか惨めの憐憫の意で理解されやすいのだが、『御文章』での用例は他者と共感する意で用いられている。
 
 おりに触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な感歎をあらわす意。一説に「ああ、われ」という意味だという。現代では、気の毒とか惨めの憐憫の意で理解されやすいのだが、『御文章』での用例は他者と共感する意で用いられている。
  
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蓮如さんの行跡を記した『空善聞書』(浄土真宗聖教全書p.672)には、
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:一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。
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とある。
  
 
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2017年10月15日 (日) 11:51時点における版

あはれ(あわれ)

 ああ。何とかして、是非ともという意を含む。 (御文章 P.1187)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 おりに触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な感歎をあらわす意。一説に「ああ、われ」という意味だという。現代では、気の毒とか惨めの憐憫の意で理解されやすいのだが、『御文章』での用例は他者と共感する意で用いられている。

蓮如さんの行跡を記した『空善聞書』(浄土真宗聖教全書p.672)には、

一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。

とある。