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「仏願の生起本末」の版間の差分

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『浄土論註』の上巻には、浄土の荘厳相を解釈するについて、
 
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:'''仏本'''(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、……畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。
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:'''<kana>仏本(ぶつもと)</kana>'''この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、……畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。
:このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。 三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。
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:このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。 三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。 ([[浄土論註 (七祖)#no8|論註 P.57]])
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と、浄土の三厳二十九種の荘厳相を、一々に仏願の生起(仏本)と本と末というかたちで述べられている。<br />
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と、浄土の[[三種の荘厳|三厳二十九種の荘厳相]]を、一々に仏願の生起(仏本)と本と末というかたちで述べられている。<br />
また、至心。信楽、欲生の三心を釈するについても、
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また、至心、信楽、欲生の三心を釈するについても、
 
*機無(き-む) 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)が衆生をみそなわすに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄で真実な心は全く存在しないということ。
 
*機無(き-む) 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)が衆生をみそなわすに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄で真実な心は全く存在しないということ。
 
*円成(えん-じょう) 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因を、<kana>円(まどか)</kana>に成就されたこと。
 
*円成(えん-じょう) 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因を、<kana>円(まどか)</kana>に成就されたこと。
 
*回施(え-せ) 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの因である功徳を、衆生に等しく回向し施して下さること。
 
*回施(え-せ) 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの因である功徳を、衆生に等しく回向し施して下さること。
 
と、仏願の生起(機無)、本(円成)、末(回施)というかたちであらわされておられる。→[[機無・円成・回施・成一]]<br />
 
と、仏願の生起(機無)、本(円成)、末(回施)というかたちであらわされておられる。→[[機無・円成・回施・成一]]<br />
なお、三心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とし、「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」と、信楽の体は名号であるとされておられる。
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なお、三心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」 ([[信巻本#P--232|信巻 P.232]]) とし、「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」([[信巻本#no28|信巻 P.235]]) と、信楽の体は名号であるとされておられる。<br />
 
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この意味において、本願成就文の、
 
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:あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。
 
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の「その名号を聞きて」を御開山は、
 
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:しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
「しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」
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とされておられるので「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」は、阿弥陀仏の[[名号]]の[[いわれ]]を聞信の無疑心である。
 
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『経』に聞といふは→「聞其名号信心歓喜乃至一念」 [[仏説 無量寿経_(巻下)#P--41]]
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2017年10月12日 (木) 18:10時点における版

 ぶつがんのしょうきほんまつ

 仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること。(信巻 P.251)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

阿弥陀仏の名号いわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。→聞即信。(浄土真宗辞典)

『浄土論註』の上巻には、浄土の荘厳相を解釈するについて、

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、……畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。
このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。 三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。 (論註 P.57)

と、浄土の三厳二十九種の荘厳相を、一々に仏願の生起(仏本)と本と末というかたちで述べられている。
また、至心、信楽、欲生の三心を釈するについても、

  • 機無(き-む) 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)が衆生をみそなわすに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄で真実な心は全く存在しないということ。
  • 円成(えん-じょう) 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因を、(まどか)に成就されたこと。
  • 回施(え-せ) 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの因である功徳を、衆生に等しく回向し施して下さること。

と、仏願の生起(機無)、本(円成)、末(回施)というかたちであらわされておられる。→機無・円成・回施・成一
なお、三心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」 (信巻 P.232) とし、「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」(信巻 P.235) と、信楽の体は名号であるとされておられる。
この意味において、本願成就文の、

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。

の「その名号を聞きて」を御開山は、

しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

とされておられるので「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」は、阿弥陀仏の名号いわれを聞信の無疑心である。