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「明信仏智」の版間の差分

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ここでの「仏智乃至勝智」とは「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」の[[五智]]である。<br />
 
ここでの「仏智乃至勝智」とは「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」の[[五智]]である。<br />
梯實圓和上は『聖典セミナー』で、この仏智を疑うとは、、
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梯實圓和上は『聖典セミナー』で、この仏智を疑うとは、
 
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虚妄分別を離れた如来の[[無分別智]]が、迷っている人びとを救うために無分別後得智をおこしてもうけられたのが、一切衆生を善悪・賢愚の差別なく無礙に救いたまう本願の救いでした。それはまさに不思議の仏智の表現された領域であって、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏とのみの知りたまう)の領域でした。ですから、たとえ最高位の菩薩である弥勒菩薩といえども、本願を思議し、計り知ることはできません。その仏智不思議の本願を人間の理知によって思議し、計量して信受しないことを本願疑惑といい、はからいをまじえずに仏智不思議の本願を信受することを信心というのです。したがって、本願疑惑は仏智に背反する心であり、虚妄分別を体としている分別思議を本体とする心です。
 
虚妄分別を離れた如来の[[無分別智]]が、迷っている人びとを救うために無分別後得智をおこしてもうけられたのが、一切衆生を善悪・賢愚の差別なく無礙に救いたまう本願の救いでした。それはまさに不思議の仏智の表現された領域であって、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏とのみの知りたまう)の領域でした。ですから、たとえ最高位の菩薩である弥勒菩薩といえども、本願を思議し、計り知ることはできません。その仏智不思議の本願を人間の理知によって思議し、計量して信受しないことを本願疑惑といい、はからいをまじえずに仏智不思議の本願を信受することを信心というのです。したがって、本願疑惑は仏智に背反する心であり、虚妄分別を体としている分別思議を本体とする心です。
 
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といわれていた。そもそも仏教における罪とは戒律に違背することであったが、大乗仏教の発展に伴い、真如の顕現である仏智を疑うことが本来的な罪であるとされた。御開山は、その仏智を疑うことを「自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じない」、信[[罪福]]心とせられた。<br />
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といわれていた。そもそも仏教における罪とは戒律に違背することであったが、大乗仏教の発展に伴い、真如の顕現である仏智を疑うことが本来的な罪であるとされた。御開山は、その仏智を疑うことを「自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じない」、信[[罪福]]心とせられた。 参照→[[amida:真仮論の救済論的意義]]<br />
 
そして『誡疑讃』二十三首([[正像末和讃#誡疑讃]]) を作り「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」とされた所以である。<br />
 
そして『誡疑讃』二十三首([[正像末和讃#誡疑讃]]) を作り「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」とされた所以である。<br />
  

2017年8月12日 (土) 22:46時点における版

みょうしん-ぶっち

 明らかに不可思議の五智の仏智の顕現である第十八願を信じて疑わないこと。不了仏智・疑惑仏智に対する語。

出拠:

若有衆生 明信仏智乃至勝智 作諸功徳 信心廻向 此諸衆生於七宝華中 自然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相・光明・智慧・功徳 如諸菩薩 具足成就。

もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。 「(大経 P.77)

ここでの「仏智乃至勝智」とは「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」の五智である。
梯實圓和上は『聖典セミナー』で、この仏智を疑うとは、

虚妄分別を離れた如来の無分別智が、迷っている人びとを救うために無分別後得智をおこしてもうけられたのが、一切衆生を善悪・賢愚の差別なく無礙に救いたまう本願の救いでした。それはまさに不思議の仏智の表現された領域であって、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏とのみの知りたまう)の領域でした。ですから、たとえ最高位の菩薩である弥勒菩薩といえども、本願を思議し、計り知ることはできません。その仏智不思議の本願を人間の理知によって思議し、計量して信受しないことを本願疑惑といい、はからいをまじえずに仏智不思議の本願を信受することを信心というのです。したがって、本願疑惑は仏智に背反する心であり、虚妄分別を体としている分別思議を本体とする心です。

といわれていた。そもそも仏教における罪とは戒律に違背することであったが、大乗仏教の発展に伴い、真如の顕現である仏智を疑うことが本来的な罪であるとされた。御開山は、その仏智を疑うことを「自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じない」、信罪福心とせられた。 参照→amida:真仮論の救済論的意義
そして『誡疑讃』二十三首(正像末和讃#誡疑讃) を作り「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり」とされた所以である。

この五種の仏智を疑うことについては、曇鸞大師撰述とされる『略論安楽浄土義』に詳しい。何故か御開山は引文されておられないのだがリンクしておく。→『略論安楽浄土』