「往還分斉」の版間の差分
提供: WikiArc
細 |
|||
92行目: | 92行目: | ||
<br /> | <br /> | ||
『安心論題を学ぶ』(内藤知康著)p281~ | 『安心論題を学ぶ』(内藤知康著)p281~ | ||
+ | |||
+ | [[Category:追記]] |
2017年12月15日 (金) 06:46時点における版
16.往還分斉
【題意】
『教行信証』「教文類」には
- つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。(『註釈版聖典』一三五頁)
とのお示しであります。このご文では『註釈版聖典』の同頁の欄外に真宗大綱と記されているように、浄土真宗のみ教え骨格を示すご文と位置づけられています。つまり、浄土真宗のみ教えの骨組みは、往相回向と還相回向の位置づけの区別明確にして、両者の位置づけの混乱から生じる誤った見解におちいらないように注意をうながすのが、この論題の設けられた意図です。
【出拠】
題意で示した『教行信証』「教文類」のご文や、『尊号真像銘文』の
- しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。(『同』四七八頁)
のご文、その他、『浄土三経往生文類』(『同』六二五頁以下)などが出拠です。
【釈名】
「往」とは往くこと、「還」とは還ることです。どこからどこへ往き、どこからどこへ還るのかといいますと、迷いの世界である穢土(=娑婆)から悟りの世界である浄土(=極楽・安楽)へ往き、浄土から穢土へ還るのです。そして、出拠に往相・還相と分けているように、往とは往相つまり往生浄土の相(浄土に往生してゆくすがた)という意味で、還とは還相つまり還来穢国の相(穢土=迷いの世界に還ってくるすがた)という意味です。ちなみに付け加えておきますと、仏教で穢れというのは煩悩・自己中心性を意味します。つまり自己中心的な考えやそれに基づく欲望に満ちあふれた世界のことを穢土といい、自己中心的な考えや欲望による穢れが全くない浄らかな世界のことを浄土といいます。
そして、分斉というのは、往相・還相それぞれの言葉の意味する範囲のことです。
まとめて言えば、往還分斉とというのは、浄土真宗における往相(往生浄土の相)という言葉の意味する範囲と還相(還来穢国の相)という言葉の意味する範囲ということで、それぞれの意味する範囲を明確にして、両者を混同しないようにするのがこの論題の目的であるということは、すでに題意のところで述べたとおりです。
【義相】
往相の意義
往相とは往生浄土の相、つまり娑婆世界から浄土へ往く姿なのですが、それは、
- 往相の回向について真実の教行信証あり。(『同』一三五頁)
と示されていますように、教に明かされる行信の因によって無上涅槃の証果を開くというものです。
この教・行・信・証は、教に明かされる行信の因をいただく(教・行・信)のは、この娑婆世界での現在の生涯においてですし、無上涅槃の証果を開く(証)のは、浄土で受ける未来の生においてであり、往生浄土のすがたとは、現在の生と未来の生との両方にわたるものなのですが、往生という言葉そのものは、命終わる時におきる事態つまり娑婆の迷いの生から浄土の悟りの生への転換という事態を指します。この命終わる時の往生は、正依『大経』に、
- かの菩薩等、命終わりて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。(『同』七七頁)
と説かれ、また法然上人の『往生要集大綱』に
- 往生と言ふは、草庵に目を瞑ぐの間、便ちこれ蓮台に跌を結ぶの程、即ち弥陀仏の後に従ひ、菩薩衆の中に在り、一念の頃に西方極楽世界に生ずることを得。(『真聖全』四―三九三頁)
とも示されますように、浄土教が浄土教として成立するための要件の一つであり、親鸞聖人のみ教えにおける往生も同様に命終わる時の往生です。
親鸞聖人は、「行文類」の正信偈の前におかれている文に『大経』のご法義すなわち第十八願のご法義をあらわされる中、
- 往生はすなはち難思義往生なり。(『註釈版聖典』二〇二頁)
とお示しになります。難思義往生とは、双樹林下往生(自力諸行による往生)、難思往生(自力念仏による往生)に対し、他力念仏による往生のことで、この難思義往生が浄土真宗のみ教えにおける往生、つまり往生即成仏です。
ところで本願成就文には、「すなはち往生を得」(即得往生)(『同』四一頁)という言葉があり、この即得往生と前述の難思義往生との関係がさまざまに議論されています。「即得往生」という論題もありますので、少し述べてみましょう。
即得往生の意義
「即得往生」という言葉については、まず「即」という言葉の意味が大変重要になります。この「即」という言葉について、親鸞聖人は、位につくことを即位というように、「即」には「つく」という意味もあるとお示しなのですが、問題になるのは、「即時」というように、時間的な意味で「即」という言葉が用いられる場合です。
「即時」という言葉について、『大智度論』という書物には、
- 即時に二種あり、一つには同時、二つには久と雖も、更に異法無し。(『大正蔵経』二五―三一三頁)
と解釈されています。つまり、時間的なことを意味する「即」という言葉には、二種類の用法があり、一つは同時という意味で用いられ、もう一つは時間的に隔たりがあっても他のことがらが関係しないという意味、必然という意味で用いられるということです。前者を同時即、後者を異時即といいます。例を挙げてみましょう。
「電灯のスイッチを入れると、すなわち明かりがつきます」という場合の「すなわち」は同時即であり、「炊飯器のスイッチを入れると、すなわちご飯が炊けます」という場合の「すなわち」は異時即です。電灯のスイッチを入れるのと明かりがつくのとは同時ですが、炊飯器のスイッチを入れるのとご飯が炊けるのとは同時はなく、いくらかの時間がかかります。しかし、スイッチを入れてから、その後は何もしなくても必ずご飯が炊けます。「久と雖も、更に異法無し」ということです。
ところで、本願成就文の「即得往生」の「即」は、「信心歓喜乃至一念」を受けると考えられ、その意味は、「信心が開けおこると、すなわち往生を得る」ということです。『大経』そのものの意味では、この「すなわち」は異時即と考えられます。つまり、信心の開けおこる時と、往生を得る時とは、同時ではないのですが、信心が開けおこると必ず往生することができるという意味をあらわしています。この場合には、次の「住不退転」は往生して後の、お浄土において得る利益だということになります。これが異時即であり、異時即としての「すなわち」の使い方は「高僧和讃」の善導讃に、
- 煩悩具足と信知して
- 本願力に乗ずれば
- すなはち穢身すてはてて
- 法性常楽証せしむ
- (『同』五九一頁)
にみることができます。煩悩具足と信知して本願力に乗ずる時、つまり信心が開けおこる時と、この肉体(穢身)を捨てて悟りを開く時とは、決して同時ではありません。しかし、両者は必然で結ばれています。
ところが、親鸞聖人は「即得往生」の「即」を同時即としてお示しになります。『一念多念文意』に、
- 「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。(『同』六七八頁)
と述べられ、『唯信鈔文意』に、
- 「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。 (『同』七〇三頁)
とお述べになるとおりです。そこでは、「即得往生」は次の「住不退転」と同じ意味と示されます。『唯信鈔文意』に、
- すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、(同前)
と述べられているとおりです。この場合は、「信心が開けおこるまさにその時、ただちに往生を得る(=不退転に住する)のである」という意味になります。不退転に住するというのは、
- 不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、(同前)
といわれますように、往生成仏が決定するということであり、信心が開けおこる時と往生成仏が決定する(利益を獲得する)時とが同時であるという信益同時ということがあらわされていることになります。
即得往生の解釈
信心が開けおこる(獲信)と同時に即得往生なのですが、その解釈に二通りがあるといわれています。
まず第一は、即得往生の四字すべてが獲信と同時の事態であるという解釈です。この場合の「往生」は、そのまま入正定聚・住不退転の意味であって、決して往生即成仏の往生(これを難思義往生といいます)の意味ではありません。もし難思義往生が獲信と同時に成立するならば、獲信の時に成仏という利益まで得てしまうということになり、明らかに誤った理解ということになります。信心が開けおこるまさにその時に往生(入正定聚・住不退転)の利益を得るのであるという第一の解釈は「即得往生」が『愚禿鈔』に
- 本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
- 即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
と示されているところに見ることができます。
第二の解釈は、即得往生の四字の中、即得の二字だけが獲信と同時の事態であり、往生は同時ではないという解釈です。ややこしいようですが、この解釈は「得」の字の解釈にポイントがあります。『一念多念文意』に、
- 「得」はうべきことをえたりといふ。
と解釈されていますが、「うべきこと」とは、当然手に入れることのできることという意味で、次の往生と組み合わせれば、当然往生できるということを得るのが、「得往生」ということになります。この場合の往生は往生即成仏の難思義往生です。つまり、当然(将来必ず)難思義往生できるという利益(=入正定聚・住不退転)と、獲信と同時に得るのが「即得往生」という事態である、ということになります。このような解釈は、「行文類」の
- 『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。
に見ることができます。
このように、二つの解釈がありますが、結局「即得往生」とは、獲信と同時に入正定聚・住不退転の利益を得るという事態を表現しているということで一致しています。解釈の相違は、獲信と同時に、往生(=入正定聚・住不退転)の利益を得るというのか、往生(=難思義往生)することができる(=入正定聚・住不退転)という利益を得るというのか、「往生」という言葉、「得」という言葉の解釈が違っているということです。特に「往生」という言葉についていえば、「往生」という言葉には、入正定聚・住不退転を意味する場合と、難思義往生(往生即成仏)を意味する場合と、二通りの使い方がされている(第一の解釈)というものと、「往生」という言葉には、難思義往生(往生即成仏)を意味する使い方しかない(第二の解釈)という違いをみることができます。ただし、第一の解釈に立っても、親鸞聖人が、「入正定聚・住不退転」という事態を「往生」という言葉で表現されたということではなく、本願成就文の「即得往生」に「往生」という言葉は、「入正定聚・住不退転」という事態を意味しているとお示しになったということに留意しておく必要があります。
そして繰り返しますが、往生即成仏の難思義往生こそが浄土真宗における往生であり、往生とは命終の時の事態であるという浄土教の基本的枠組みがくずれてしまわないよう気をつけていただきたいと思います。
還相の意義
次に還相とは還来穢国の相、つまり浄土から娑婆世界に還ってくるすがたですが、なんのために還ってくるのかというと、『教行信証』「証文類」に
- 二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。(『註釈版聖典』三一三頁)
と示されていますように、衆生教化の救済活動に為に還ってくるのです。
この救済活動は、往生成仏の後に迷いの世界である穢土に還ってきて行われるものですが、還相回向釈に引用される『浄土論』や『往生論註』の文に、
- 「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。(同前)
- 還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。(同前)
と述べられますように、救済能力が完成された上での自由自在の活動であり、また『浄土和讃』に
- 安楽浄土にいたるひと
- 五濁悪世にかへりては
- 釈迦牟尼仏のごとくにて
- 利益衆生はきはもなし
- (『註釈版聖典』五六〇頁)
とうたわれますように、釈尊と同等と位置づけられる最高の利他活動です。このような利他活動は凡夫には不可能であり、獲信後に還相の利他活動を行うとの考えは明らかに誤りであるといわねばなりません。
ところで、還相回向は第二十二願に基づくものですが、第二十二願文は、
- たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
- (『同』一九頁)
であり、まずお浄土に生まれたものは一生補処となり、自由自在に他の世界にゆき、その世界の衆生を教化すると誓われています。ここに一生補処という言葉が出てきますが、補処というのは仏処を補うという意味です。つまり、仏がすがたをかくされると、自らが仏と成って仏の欠けたところを補うということです。具体的な例を出すと、この娑婆世界は釈尊がすがたをかくされて以来、仏のおられない世界となっています。つまり、娑婆世界には仏が欠けているのです。そこで、その欠けたところを補ってくださるのが弥勒菩薩ということになります。五十六億七千万年の後、弥勒菩薩が成仏して弥勒仏となられて、やっと欠けた仏処が補われるということになります。そして、弥勒菩薩は現に兜率天という世界におられるのですが、兜率天の寿命を終えると、この娑婆世界に生まれてこられ、成仏されるのであるといわれています。このように現在の一生を終えた次の生涯に成仏する(仏処を補う)菩薩を一生補処の菩薩といいます。阿弥陀如来のお浄土では、阿弥陀如来がすがたをかくされることはなく、つまり仏が欠けるということはありません。欠けることがないので、欠けたところを補うということもありません。実際は仏処を補うということがなくても、あと一段階のぼると仏になるという菩薩の最高位のことを一生補処の菩薩といいます。第二十二願には、お浄土に生まれたものは、あと一段で仏という菩薩の最高位となるということが誓われているということです。
ところが、正定聚の項でみましたように、お浄土に生まれるということは、仏のさとりを開くということです。これはどういうことでしょうか。実は、一生補処の菩薩とは、内に往生即成仏の仏のさとりを開いていながら、外には菩薩のすがたをあらわしたもののことだということができます。このように、すでに仏となっていながら、菩薩のすがたに還ったのを還相の菩薩といい(広門示現相の菩薩ということもできます。「正定滅度」参照)、還相とは従果還因の相(果位の仏より因位の菩薩に還る)であるということもできますが、往相が往生浄土の相であることに対比すれば、還相は還来穢国の相を本義とするというべきでしょう。
【結び】
往相とは往生浄土の相であり、往生とは命終わるその時に迷いの生を捨てて悟りの生を得るという事態です。還相とは還来穢国の相であり、往生即成仏の証果を得おわって後の自由自在の救済活動のことをいいます。両者の位置づけを明確にして、浄土真宗のみ教えにおいては現生の往生や信後の還相が成り立たないことを確認しなければなりません。
『安心論題を学ぶ』(内藤知康著)p281~