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「歸命本願抄」の版間の差分

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中古文と旧漢字なので読みにくいが、ほぼ作者の意向は受け取れるとおもふ。  
 
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====歸命本願抄上====
 
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http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2615_,83,0278c03&key=%E5%B8%B0%E5%91%BD%E6%9C%AC%E9%A1%98%E6%8A%84&ktn=&mode2=2
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[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2615_,83,0278c03&key=%E5%B8%B0%E5%91%BD%E6%9C%AC%E9%A1%98%E6%8A%84&ktn=&mode2=2 本文の出所は大正新脩大藏經テキストデータベースです]

2011年7月25日 (月) 23:13時点における版

この書は、浄土宗清浄華院第五世 向阿証賢(こうあしょうけん)上人(1265?~1345?)の作とされる。元亨年間(1321~1324)成立。「帰命本願鈔」3巻・「西要鈔」2巻・「父子相迎」2巻などがある。和文で、浄土宗の教義を説く。
蓮如上人の次女、見玉尼は縁あって浄土宗浄華院に喝喰に出されていた。吉崎建立の頃、上人の膝下へ戻ったといわれる。蓮如上人は、この見玉尼の縁で『歸命本願抄』を読まれ、請求(しょうぐ)の意味のタスケタマエやタノムを、許諾の意味に転じて「お文」(御文章)で使い出されたのではないかと聴いたことがある。

中古文と旧漢字なので読みにくいが、ほぼ作者の意向は受け取れるとおもふ。

歸命本願抄

歸命本願抄上

夫八萬隨情の教門は、みな苦海をわたる法船なりといへども、六八超世の本願のみ、ひとりよく常沒をすくふ教網たり。 是すなはち本師彌陀五劫思惟の善巧、末世の衆生九品往生の方便なるものをや。 しかあれば、四重八重のともがら、ことごとく報佛化佛の來迎にあづかり、一種一念のたぐひ、おなじく無漏無生の寶國にいたる。 このゆへに光明大師震旦にあらはれて、このおもむきをすすめ、黒谷の上人我朝にいでて、このむねをひろめ給ひしよりこのかた、教をうかがひ行をもとむるもの四遠にみち、穢をいとひ淨をねがふやから一天にあむねくして、世のならはし人のことわざになりにしかば、大かたことはりむでは我も人もみみなれたる事ぞかし。

されども安心起行のありさまなんどこまやかにたづねうかがはんとすれば、諸方の智者たち、そのおしへまちまちにして、往生の徑路ひとかたにおもひさだめがたし。 このなかに、いづれか、まさしき法然上人のすすめ給けんおもむきならんと、おぼつかなけれども、面面にわれこそ黒谷の遺風なれと稱し、これなん吉水の餘流なりと號すれば、あまねく、とふらふにしたがひて、いとどをろかなる心まよひぬべし。

さのみよも、上人のをしへのまちまちなりしにはあらじ。 いかにも下愚の今案のみだりがはしきならんと、をしはかられたり。 さればいかがして相傳の正否をもあきらめ、法門の是非をも、たたさましなんと、さまざまおもひわつらひたるにも、あはれ心あらん人もがな、なげきあはせまほしきに、まことやそのいにしへ北白河のわたりにすみ侍りしころ、わりなくおもひいれたる同法のありしぞかし。 對面などもかきたえておもひわすれにける。ゆくえいかがなりぬらんと、おぼつかなくて、たづねきく程に、ほのかに、そのすみかなんめりとおぼゆる所はあれども、見しにもあらずあれて庭のけしきもあとかすかなり。 ちかきあたりにたちよりて、もしさる人やとたづぬれば、その僧ははや、こぞのこのごろにて侍しやらん。めでたく往生し給にき。そののちは、けしかるあまの、ひとり出いるが、けふしもたがひて侍にやとかたる。

さだめなき世はさる事なれども今さらあはれにおぼえて、一佛淨土もいとどいそがるる心ちすれば、むかしのなごりは花のうへにてもわすれじ物を、各留半座乘花葉わがためにもぞのこすりん。待我閻浮同行人、その人かずにもれじかしと、たのもしくおぼえて、臨終のありさまなど、くはしくかたらふ程に、おぼえずして時うつりにけり、とみれば、日もやうやう入なんとす。

立かへらんみちもはるかなれば、いかがはせましとおもひわづらふに、さてもけふは彌陀感應の日なり。 たまたま又、利物偏増のみぎりにちかし。事のついでなるは心やましけれども、おろかならぬ心ざしは、佛しり給ひなんとおもひて、その夜は眞如堂にまうでて通夜し侍りぬ。 夜さしふけ、人うちしづまる程になりにしかば、青嵐のきをはらふひびき、をのづから念佛衆生のこゑをそへ、皓月いらかをてらすかげ、そらに接取不捨のひかりをます。心すごさもかぎりなきに、みちのくたびれとりそへて、しづかに念佛するとおもふ程に、さながらねふりにけり。

されどもたびねのとこ、うちとけがたく、おいの枕おどろきやすければ、程なくねざめてきけば、いつの程よりか、まうでにけむ、僧二人なつかしく、ゐよりてうちかたらふをとすなり。 一人は、しきりにうちしはぶきたるこゑ、いとおいたり。をのれからも、よにたうとく思いれたる所、さぞ、ふかからむと見えたり。ちかくこのあたりよりむうでたる人なるべし。 いまひとりは初發心のものなんめり。いづくよりの修行者にかあらむとおぼゆ。

ねふりにけるまに、何事をかかたりけむとゆかしくききゐたれば、修行者のいはく、本師一代の諸教は、機根の萬差に逗ずれども、末法萬年の利益は、念佛の一門にかぎれりといふ事、みなうけたまはりおりぶ所なり。 しかはあれども、この念佛の一行をもて、決定往生すべきことはり、いかなるゆへとしらず、もとより一文不知の身なるうへ、はかばかしく知識のをしへをもうけたまはらねばつやつやたちいらぬ事に侍り。 不審までもをよばぬうゐうゐしさなれば、いづくをいかにと問申すべしともおぼえず。ただをろかなる心をくみて、ききやすきやうにをしへ給なんやといへば、老僧のいはく、さやうの事は智者のわざなり。さらに愚老がわきまふべき所にあらず。申さむにつけて佛の知見もはばかりあり。 人のあざけりいかがさらん。そのうへをのづからききをきたりし事も、ちかごろはいたくおいにほれてみなわすれぬてん。 されどもたづね給ふ所の、さりがたければ心にのこりたらん事の、かたはしを、いささかきこえ侍らむ。 いにしへ智者たちの申されしは、念佛して極樂に往生すといふ事、さらに別の子細なし。 いかなる惡人なれども、たすけ給へと思て、南無阿彌陀佛ととなふれば、佛の本願に乘じて必うまるる也。 その願といふは、四十八願の中の第十八の願に、設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺と説たまへるなり。この願をくはしく心うるに、機につきて心行あり。佛につきて誓願あるべし。 そのなかに十方衆生といふは、まづ往生の機類をさだむ。善人も惡人もともにおさむるべけれども、大悲のほい(本意)をはかるに、もとも惡人をさきとすべし。 至心信樂欲生我國といふは、往生の安心をあかす。くはしくいはば三心あるべし。 要をとればたすけ給へとおもふ心にたりぬ。乃至十念といふは往生の起行をとく。彌陀の名號をとなへんこと、十こゑ一こゑまでもすてじとなり。若不生者不取正覺といふは誓願をたつ。その念佛せんもの生るまじくは、われ正覺をとらじといふなり。 おほよそいづれの教にも機と心と行との三をあきらむるが、諸宗の大事にては侍るなるに、かの聖道門のなかに五逆の調達をさして、三菩提の記莂をさづけしがごときは、まづは機をきらはぬ法なんめりとたのもしけれども、僧那を始心にむすび妙觀を十乘にこらさしむるにいたりては、發心修行、さらに下根のをよぶ所にあらざるがゆへに、つゐには機をえらぶ教になりぬ。

されば無始生死よりこのかた、さすが佛教にもこそあひつらめども、いままでなを流轉の凡夫たる事は、機根はつたなのくして心行のをよびがたきによるなり。しかれば自力の出離は、つやつや思たえたる事にて侍るに、いまこの淨土の教門、彌陀の本願をもて、我らが分にあててみれば、すでに極惡をすて給はぬうへは、もとよりつくろはずしてその機なり。 又機のつたなきにつけては、をのづからたすけ給へとおもふ心もをこりぬべし。 心にたすけ給へとだにもおもへば、はげまざるに申さるる念佛なり。はかなきこの世さまにつけてだにも、なげきある時のまぎらはしには、南無阿彌陀佛とこそいはるめれば、まして後の身をいかがとおもはん人は、わすれても、となへつべくこそ侍れ。

さればこの機と心と行とにてぞ、我らが生死をいでん事は、むげにたやすくなり侍りぬる。 さるには又さしもたやすかるべくもなき往生を、これ程のぶんにてはいかがとぞ、かへりてうたがはれぬべけれども、もし生れずば正覺をとらじとちかひ給ぬるうへは、ゆめゆめ卑下すべくもなかりけり。 をのが力にて生ればこそ、身の程をもかへりみめ。佛の願力によるべからんには、いかさまにてこそかなはめななはおもふまじき事ぞかし。 されば善導大師の若我成佛十方衆生、願生我國、稱我名號下至十聲、乘我願力、若不生者不取正覺と釋し給て、乘我願力のことばをそへられたる事は、これ程につたなき機のわづかなる心行は、さらに物のようにたつべくもなきよはよはしさなれども、さしもねんごろにむまれしめんとおぼしめす、佛の御心ざしの力に、とりたてられて、その本願に乘ずるがゆへに、往生するなりといふ事をあらはさんとなるべし。

しかるをよのつねの人のおもはくは、かひなくただ、をのが心ざし、をのが行の功にて、むまれんずるやうに心得て、ひたすら佛の御ちからとのみはおもはぬこそ、おほけなき事にて侍れ。 さる程はすずろに心行もふそくにおぼえ往生もうたがはしげなり。これしかしながら他力のいはれをおもひわかぬゆへ也

又修行者とひていはく、本願のなかの十方衆生といふは、惡人をもて本とすべしとのたまはせつれば、その機にもるるものはあるまじきなんめりとまめやかに、たのもしけれども、たちかへり又身わがのありさまをおもひとくには、なをうたがひののこらざるにあらず。 そのゆへは、かやうにすがたは黒衣なりといへどもこころは白俗を(よ)りもにごれり。あやまりて出家のかたちをかりて、渡世誑惑のはかりことし、沙門の名をぬすみて名聞利養のなかだちとせり。 これ無刀の大賊なり、劫盜よりもつみあらんかし。たまたまうちしづまる時は、又妄念こころにきほひて、念佛はただ口ばかりなり。あまりなるには人はよもこれ程もあらじ、わが身ひとつのくせにこそとまでおぼゆるにも、かからん身のありさまをば、すこしひきかへてこそ、十方衆生のうちにもいらめとおぼゆるは、ひがことに侍るをやといへば、 老僧のいはく、あな事あたらし、ひたすらにごりにそみたるよりも、中中なまうかびでは、つみおほき事ぞとはしり給はずや。されば在家の十惡は下品上生にうまるれども、出家の破戒は下品中生とこそとかれたれ。すべてこのごろのありさまは、世もをしなべてにごり、人もおなじくつたなければ、よきもあしきもただをふといはぬとにてこそあれ。

こころのうちをくらべたらは、いく程のけぢめ侍らじかし。たとへばそれはともかくもあれ。まつこの阿彌陀佛を、諸佛にこえてたとひたてまつる事は、何ゆへとかしりたまふ。 さしもの十惡五逆の機を、わづかに一念十念の功にて、たすけ給ふ事のならびなき、かたよりこそ、超世のほまれをも、あげて一代の教にも、ほめられ給ふ事にて侍れ。さればその本願のをこりは、三世の諸佛にもすてられ、十方の淨土にも入りれぬものの、惡ををこしみをつくる事は、あらき風よりもはげしく、とき雨よりもしげくして、さだめて惡道におちなんとするをあはれまんがために、こころを五劫の思惟につくし、身を兆載の修行にくだきて、たて給へるちかひ、成じ給へる願ぞかしな。 それをばたが身のうへとかおもはるる。しかしながら我りがためにこそ侍るめれ。かかるいたづらものなればなて、諸佛はうらめしくすて給にしを、われだにもとてかたじけなく、彌陀ひとりあはれみ給ふゆへにこそ、我建超世願、必至無上道、此願不滿足、誓不成正覺とはの給しが、されば本願には、わく所なく總じて十方衆生とこそときたれ。 いつかは善人をのみといひたるや。そのうへはただまづ善人は善人ながら惡人は惡人ながら、ありのままにておさまるべしとこそ心えられたれ。 つたなかりし心のもちやう、わろかりし身のふるまひを、あらためてのちかなふべくは、善人をのみすくふ本願とぞ申すべき。 さではなにをもてか、世にこえたるちかひのしるしとせん。ただしゑらぶところは、わが國にうまれんと思て、名號を、となへんものをと侍れば、往生のねがはしからざらんこころと、念佛におもむかざらん心とをぞ、いかべどもあらためずしては叶まじかんめる。

このゆへに法照禪師は、彼佛因中立弘誓、聞名念我總來迎、不簡貧窮將富貴、不簡下智與高才、不簡多聞持淨戒、不簡破戒罪根深、但使迴心多念佛、能令瓦礫變成金と釋して、持戒も破戒も、とてもかくても機のよしあしはさらにもいはず。 ただ往生のこころざしにて、南無阿彌陀佛と申さんのみ、本願にはかなふべしといへり。抑三世の諸佛いづれか多聞淨戒をほめ、破戒罪根をすて給はざるや。われら無始よりこのかた、六道の貧里にまよひて、福智の珍財をうしなへる事は、諸佛こぞりて、惡をやめ、つみをとどめよとのみ、いましめ給ひしをきてに、かなはざりしによりて、かなしく慈悲の父母にすてられて、あぢきなく流轉のみなし子となりにしゆへなり。 しかるを彌陀の本願にも、又多聞淨戒をえらびとり、破戒罪根を、えらびすてたまふ事ならましかばいかがはせん。かかるつたなき身には、おもひたえたる往生にてぞあるべきに、いまこの釋の中に、不簡多聞持淨戒、不簡破戒罪根深とて、ただおなじ詞にいひすてられたるこそ、ことにみみにたちてたうとく、本願の人によらぬほどもかたじけなくおぼえて、よろこびのなみだもふかくにこぼれにけれ。

又法然上人の、鍛冶往生番匠往生とのたまひけんも、ただもとの身がらをあらためずとも、念佛せば往生すべしといふ心なるべし。かくてぞげに本願もひしとわが物におぼえて、彌陀も諸佛にこえてたのもしかんめるを、人ごとに女はあまにもなり、おとこは法師にもなりて、在家のちりにもけがされず、妄念のにごりをも、すましてぞ、佛の御こころにはかなはんずるとおもへるほどに、いまのわが身は本願のよそなる物になりぬ。 かくてはあたら念佛もいたづら物なる心地にて、佛もうとうととおぼゆれば、人能念佛佛還念(以下法事讃)のしたしきおもひもなく、をのれと、とをざかるこころのへだてに、籠籠常在行人前のちかきたのみもなし。 かかる念佛にては、つみもきえがたく、ほとけのむかへもいかがあらん。されば終時從佛坐金蓮のほいもながくたがひぬべし。あさましかるべき事ぞかし。さしも佛のかたよりは、いかさまならんをも、すてじとおぼしめされたるを、こなたより、かかるつみある身なればと、なまざかしき心のおにこそ、中中身のあだにては侍れ。ただひたすらにたのまましかば、よろづのとがはゆるし給なんかし。おもはずに心をきばみたるは、この世さまにもにくき事なり。 いたくわろからんにつけてこそ、いとどたすけ給へとは思ふべけれ。されば永觀も、我身もし持戒精進ならば、なんぞかならずしも彌陀をのみたのまむ。破戒懈怠の身なれば、十念往生の願をたのむなりとの給へり。 そのほかの人はまして、さこそたのみ侍るべけれ。ただし、かかればとて、本願をたのまん人は、とがをあらためず、つみをおそれずといふにはあらず。 罪人は往生すれども罪業は往生のさはりなり。身をばひげすべからず、つみをばおそるべし。このいはれをよくよく心え給はせよ。たとへば人のおやのとがある子をあはれむ。をかすところを、いましめざるにあらず。いましむれども又すつる事なきがごとし。 彌陀の本願罪人をすくふ。つみを、にくまざるにはあらず。にくみながらすて給はざるこそ、わりなき慈悲にては侍めれ。さればそのおもむきを心えて、ふるまはん人ぞ、わろわろも佛の御心には、かなひ侍るべき。

法然上人の御をしへには、十惡五逆も往生すと信じて、すこしのつみをも、をかさじとおもへ。重罪なをうまる、いはんや小罪をやと、の給へり。 十惡五逆も往生すと信ぜよといふはにくみながら、すて給はぬ御心をしるなり。すこしのつみをもをかさじと思へといふは、すてねどもにくみ給事を、つつしまんためなり。にくみながらすてたまはずと、しりぬれば、重罪なりとも、うまれん事うたがひなし。すてねどもにくみ給ぞかしとしりて、つみをおそるる時は、いはんや小罪をやと、いよいよたのもし。げにも、にくみてすて給はば、超世の悲願かひなかるべし。我らなにをか、たのみとせん。 すてたまはねばとて、つつしまずすはあまりにあやにくなるこころなり。かからん、ひがひがしさをぞ、佛も、かへりて、うち見給べき。さればとて、つみをことごとく、やめてこそといはんも、又ふぜいすぎたり。なにとしても五濁の凡夫のくせなれば、四儀の作罪とどまるべきにあらず。たとひわづかにきよき心をおこせども、水にゑがくごとし貪嗔のなみ、みなぎりきたりて、しばらくもやむ事なし。 すでに煩惱のみなもとをたたず、いかでか罪業のながれをやめん。ただわろしとしりあさましとおもふ心ばせまでを申にてこそあれ。ねんじかねてあやまりたらんおりはそれぞかし。 たすけ給へ南無阿彌陀佛とおもふべかんめるも、かかるを隨犯隨懺の念佛とはいふなり。罪垢ことごとく、きえて身つねに清淨ならん。臨終の時罪人惡人の名をあらためて、來迎のほとけ善男善女とほめ給ふべし。 さてもな、これほどに福薄因疎の機、識癡行淺の身として、すみやかに、あとを娑婆にとをざかり、心を淨域に、すましめん事はひたすら他力本願の御恩ぞかし。多生曠劫にも、いかでか報じたてまつらん。 誓到彌陀安養界、還來穢國度人天、願我慈悲無際限、長時長劫報慈恩、さらではいかがとうちくどかれたるけしき。いかにつれなからん心も、げにとはさすがおもはれぬべうこそ


歸命本願抄中

修行者又問ていはく、本願に至心信樂欲生我國といふは、ひろくいへば三心なり。 要をとればたすけ給への一念にたりぬと、の給つるその三心とはいかなる、心にて侍ぞ。などてか又、たすけ給へとおもふ一念には、たるべからん。くはしくかたらひ給なんやといへば、老僧のいはく、

よくとひ給たり、すすみても申たかりつるに、これなん往生の大事にて侍べし。そのゆへは經には、三心をぐするもの、かならずかの國にうまるととき、釋には、もし一心もかけぬれば、うまるる事をえずといひて、そのおもむき、いるかせなるまじきごとくみえたり。されば念佛するものの中に、往生をとげぬが侍るは、一心もかけにけるにこそ、三をぐしたらんものの うまれぬはあるまじき事なり。ぞの三心といふは、一には至誠心、二には深信、三には迴向發願心。一には至誠心といふは、眞實の心と釋して、虚假の心をいましめたり。念佛せんにまことしき心ありて、いつはる心なかれとなり。たとへば人の心には、さまでもおもはぬ事なれども、ことばにはおもふよしにいふを、まことなきいつはりとは申すやうに、念佛せん人の心も、このなずらへにしられぬべし。心のうちには往生の事までも思ひいれずながら、なべてこのごろの世のしきなるを、いかがうたてうとおもひて申人も侍るらむ。もしは又身のすてがたきままには、世わたるはしにとりなして、となふるものもありぬべし。これらはみな、心は名利のかたにおもむきて、行は往生を心ざすよしなり。 かかるは虚假にいつはれる念佛なるべし。ただ心に往生がしたければ、くちに南無阿彌陀佛と申さるるこそ眞實にまことなる念佛にては侍れ。たとへば何事も、かざりたる世のなかに、人のゆのほしき水のほしきといふのみぞ、いつはらぬ事にて侍らむ。いささかにても、ほしき心のなきほどは、こはれぬ事にてあれば、そのほしき心に、こきうすきはありとも、こふことばはみな、まことなるべし。後世にむけても、かくろそありたけれ。 すこしにても往生がげにしたくおぼえて南無阿彌陀佛ととなへんは、そのねがふ心に、ふかきあさきはありとも、申さん念佛はみな、まことなるべし。こころざしふかくば上品に生れ、あさくば下品にこそくだるとも、みな往生の埓のうちには入ぬる也。

その下品にうまるる程のまことは、よにやすき事なるべし。ゆめゆめ往生をかたくはおもふべからず。されども人の心すなほならぬより、やすき念佛にくせもつきぬるこそ、返返ほいなくおぼゆれ。人ごとにつくろはぬ心にて、ただありに申す念佛ならばみな往生はしてんかし。凡夫のならひなれば、この世さまの事こそあらめ。往生の方ばかりはねんじて、さな侍りそかし。

二に深信といふは、ふかく信ずる心なりと釋して、往生な、うたがひそと、いましむる也。 これにつきて二の信あり。一には自身は現にこれ罪惡生死の凡夫、曠劫より、このかた、つねに沒し、つねに流轉して出離の縁あることなしと信じ。二にはかの阿彌陀佛、四十八願をもて、衆生を攝取したまへば、うたがひなく、うらおもひなく、かの願力に乘じて、さだめて往生することをえんと信ぜよといへり。 いまこの二の信のおもむきは、苦海常沒の身にして出離の縁もなき我らぞかしと、ひたすら自力のかけたる事をしらせて、されども彌陀の本願によりて、うたがひなく往生せん事のうれしさよと、うらうらと他力に思ひつかせむとなり。

たとへば世のなかのならひも、さこそあれ。かなしくかずにもあらぬ身となりぬればこそ、わばてはすずろに世もしたはしく人のなさけも、ことにうれしくおぼゆるやうに、わが身の罪惡深重なることを、よくよくおもひしりてこそ、かかるをすてぬ本願と、きかんも、いとどかたじけなくはおぼえぬべけれ。 かの聖道の修行におもむく人は、初心より極佛の思をなすゆへに、凡身のあなうらにとどこほらず、佛祖のいただきをこえんとおもへり。されば自身即佛とをごりて他力本願をおとしめたり。 この淨土の出離をもとむるものは、鈍根無智の機なるがゆへに、縁を本願にからずしては、運を穢方につくしがたし。これによりて身を出離の縁なきものと、くだしはてて、たのみを超世の願にかくる心をおこさしむる也。 たとへばよの中の人のありさまも、あやしき、しばのいほりにすめども、あるじとなる時は、をごるけしきあり。いみじき玉のうてなにまうでても、やつこなるおりはへる心あるがごとし。我人にしたがふと、我人をしたがふるとは、その心もち、かはることなり。聖道淨土の修行の用心のたがひめは、これになずらへてしりぬべし。

されば往生を期せん人は、返返おこのけなく、身のほどをしり給へとよ、さもげに、わをき身ぞかしな、おもひと思ふ事は、のちの身のあた、なしとなすことは、この世のいとなみ、惡をなす時は寢食も、なをわすれ、善をなす時は起居みなわづらはし。かかるあさましきとがは、身がらもさすがにおぼゆらん。出離の縁なき身とは、あらがふところなかるべし。三惡の火坑あしにまかせていりなんとす、永劫の苦果なにとかせんとするや。 しかるに彌陀如來、かやうのつたなきものをたすけんために、本願をおこし給ふによりて、わづかに一世の勤苦をもて、ながく九品の快樂をうけん事は、かぎりなき悦ぞかし。あやうしな。この本願にあはざらましかば、かなしくからきめは見てまし物をと、うしろめたき心のあたの、身をはなれぬにつけても、本願のかたうどのことにたのもしくおぼえ侍ぞとよ。

三に迴向發願心といふは別の子細なし。ただ申ず念佛を極樂に迴向して、まめやかに往生せんとねがふをいふ也。さてさてかやうにくはしく申わけは、中中事おほくして、かへりて詮なるべきところやかくれぬらん。ただ三心のおほすがたは、まことしく、本願信じて、往生せばやと思へとにて侍なり。 又詮ずるところ、三心とは本願をたのむこころにて侍れば、佛たすけ給へと思ふ心だにもあれば、三心はをのづからその中におさまるべきなり。しかるゆえは罪おほき身のあさましければ、佛ならではいかでとおぼゆるにつけてこそ、たすけ給へともおもはるれば、深信もこれにこもれり。 そのたすけ給へとおもふ心には、露のいつはりもなきぞかし。それをこそ、至誠心とも申せ。このたすけ給へと思ふは、やがて迴向發願心にて侍也。あまりに、つたなくなりて、心のいたりすくなき身には、本願いしいしの事までも、猶おもひわきがたかんめれば、それにつけても、わづかにたすけ給へとばかりこそ、おもひえつべき心にては侍れ。

これ程の事は又たれか、おもはでもあらんなればみな往生はしつべくこそあれ。三心のゆくゑもしらぬ、あやしのめのわらはべなどの、往生する心づかひは、みなこのつらにてこそ侍らめ。ただし三心こまごまとならひしりたる人も、念佛うち申てゐたるつねの心づかひは、ただたすけ給へともたるるなんめり。されば阿彌陀佛をたのみたてまつりて、往生をねがふほどの人は、智慧あるも智慧なきも、おちつく所はみなひとしき心もち也。

さてこそ念佛の功徳をうる事も、往生のほいをとぐる事も、智者なればとても、まさらず、愚者なればとても、おとらず、かしこきもおろかなるも、おなじく佛のむかへにあづかり、たかきもいやしきも、ともに花のうてなにはのぼるらめ。おほかた三心はかならずしもならひて、おこすべき物にあらず。ただ往生だにもしたくなりぬれば、をのづからぐする事にて侍也。 されば智者の往生せぬもあり、愚者の往生をするもあり。これみな、しると、しらざるとにはよらず。ねがふと、ねがはざるとのゆえなり。さてさて、かやうにあまりたやすき事にて寺るほどに、人ごとにかへりてはまことしからず思て、さすが往生ほどの大事をとげむには、いかゆも智慧も、ふかく、さとりもあらん心にて申さん念佛をぞ、佛もうけひき給べき。ただたすけ給へとばかりはかろがろしと、事たらぬげに思あひたり、かやうのうたがひはげにもと、おぼゆるやうなれども、もとより彌陀の本願は、愚智無智のもののためなるにさやうに智慧才學あらん心をと、ちかはれては、人をわかぬ利益ありなんや。 又聖道門の心は、智慧をきはめて生死をいで、淨土門の心は愚癡にかへりて往生をとぐるゆへに、自力をもて生死をいでんみちにぞゆゆしく、智慧才學あらん心も大切なるべき。他力にすがりて往生をとぐるかたにては、中中ただたすけ給へとおもふが故實にて侍也。

されば法然上人は、念佛を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく學すとも、尼入道の無智のともがらに同して、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念佛すべしとの給へり。たとへば人に身をまかせて世をわたらんものは、いかにさへかしこく、心すくよかなりとも、人をたのむ程にては、われはがほならんはにくき心なるべし。まして、その身にとる所なからんはをのが程、うらおもひしりて、かかるいたづらものに、いささかのなさけをも、のこさるるは、ありがたき心ざしかなと、おもひいれて、心たらぬあやまりしいでたる時も、うららかに、うちむかひ、あさましとわびゐたるむざうさには、よくにくかりぬべきとがなれども、さながらつみゆるさるるやうに、いまの世の衆生はたとひ智者學生なりとも、そのちからにて生死をいでん事のかなはずして、他力本願を、たのむとならば、かひなき才を、さりともと、をのがちからありがほならんよりは中中ただひたすらたすけ給へとにてこそあるべけれ。 いはんや戒定惠のとる所もなく、貪瞋癡のあやまりのみおほからん身には、いよいよさりとてはと、うちたのみたてまつらん心にぞ、佛もよろづはおもひゆるし給べき。さればかかる、をろかなる身にては、いかがと思ふより佛にはとをざかり、わろきにつけても、さりとては、たすけ給へと思ふより佛にはちかづきたてまつるなり。本願により、のきのさかひは、この心の、すすみ、しりぞくあはひにて侍べし。 すなはち、善導大師の、南無者即是歸命との給へるも、南無といふは、たすけ給へといふことばと釋する也。そのことばのしたに三心あるべければ、亦是發願迴向之義ともいふなるべし。阿彌陀佛者即是其行とは、たすけ給ふべき本願の名號なればなり。

しかれば南無阿彌陀佛と、となふるは、たすけ給へ阿彌陀佛といふことばなり。 いふことばは思ふ心はあらはるるゆへに、南無阿彌陀佛ととなふることばに、たすけ給へ阿彌陀佛とおもふ心ありとしられたり。 これによりて十こゑ佛をねんずれば、十願十行ありといへり、以此義故必得往生との給へば、たのもしかるべき事ぞかし。 さればとしても、かくしても、つみふかき身のかこつかたには、たすけ給へとにてあるべき也。世にこえたる御慈悲なればとおもふのみこそ、又なくたのもしき事にては侍るめれ。

さてさてこのごろの學生たちの中に、かく罪人をすてぬ本願の心やすき事を申たてんとて罪をはばかるまじきやうに、いひなさるる人おほし。さればとて、つみをよき物といはんとにてはよも侍らじなれども、ひがひがしからん機は、ききあやまりぬべきぞかし さればすゑずゑには、邪見なる義どもも、きこゆるにや。返返あさましき事也。 すべて罪をかへりみぬものは、身のわろき事をしらず。身のわろき事をわすれぬれば、又たすけ給へとおもふ心もなし。たすけ給へと思ふ心をすすめんためにも、ことに罪業をおそるべき也。本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたす け給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。又人のそねにうたがひあひたるやうは、たとへば智慧才學はいらずもあれ、おなじくたすけ給へと思ふとも、骨髓に、とほりて、ふかからんこそ往生をもせめ。我らが心は、さまでもなし、ただかたのやうなる心ざしにては、かなふべしともおぼえず。又しらず、佛もさ程によはよはしからん心なりとも、すてじとまでは、ちかはれずもやなんどおもひあへり。かやうのうたがひはひたすら、にくからざれども、さりとては佛の本願は、さるをも、すてじとちかはれたらんには、そのうへをなをよもとは、いかがうたがふべき。凡夫のぶんざいの心は、つよくとてもなに程の事かあらん。 とても、佛の御ちからにてうまるべくは、をのがちからは、よはくとても、それによるべからず。わが心ざしのつよからんよりは、佛の願力のつよからんこそ、たのもしかるべきに、わが心ざしの、よはければとて、佛もいかがと、あやぶむは、願力をいやしむになるぞかし。ただかまへてをのがちからのよはからんにつけても、いとど佛の御ちからをたのむべき也。

又いかに、よはよはしからん心ざしまでも、すてらるまじき事は、うたがひやは侍る。そのゆへは、すでに機をさだむる時、いたりて、をもき五逆までをおさめ、行を願ずる時は、いたりてすくなき。一念までをたてたり。心をとらん時、いかが又、いたりてよはき心ざしまでをも、おさめられざらん。いはんや、つみふかき機ならば、心もしたがひてをろかに、行あさきものならば心ざしも、をのづから、うすかるべき。いはれにてこそあれ。 しかあるに、機と行とのつたなきをすくはんための本願に、心はふかからんをと、ちかはれたらんは、あたら本願のよきかたはなるべし。さしも五劫まで案じ給けむ善巧の、さるてづつなる事やは侍るべき。かやうの、ことはりをもて思ふに、いかにあさき心ざしなりとも、いつはりなく、たすけ給へとだにも思ふならば、往生にふそくはあるべからず。 おほよそ生死をいづる事のかたきにはあらず、發心する事の、かたかりしゆへに、過去遠遠、生死悠悠たりし身の、このたび彌陀の本願にあひて、わづかに、たすけ給へと思ふばかりの心をおこして、往生のほいをとげん事は、ひとへに佛の御ちからぞかし。 かかる、みのりを、ききえつる、むかしのむくひ、うれしくこそと、宿因おもひつづけて、悲喜こもごもながれけなり

修行者又とひていはく、本願すでに乃至十念とちかはれたれば、十聲一聲までもすてられず、かならず往生すべしと、の給ひつるは、よにたのもしく侍れども、いかにもなを、それ程の念佛のさだめて往生の業となるべしともおぼえず。ましてじ妄念うちおこしながら申す念佛は物のかずならじと、かろしめ、おもはるるはいかが侍るべき。 老僧のいはく、これは御身ひとつのうたがひにしもあらじ、なべて人ごとに思あへる事なんめり。本願のおもむきを、よくもしらざるゆへに、かかる、なまざかしき心もおこるなるべし。 佛すでに一念十念までもうまれしめんとちかひ給ふ。その願むなしからずはいかでか往生をとげざらん。ただこゑを本願にまかせて名號をとなふべきなり。これによりて法然上人は、たれたれも煩惱のうすくあつきをもかへりみず、罪業のふかき、あさきをもいふべからず、ただ南無阿彌陀佛と申て、こゑにつきて決定往生の思をなせとの給へり。 そのゆへは往生せんとおもひたちて南無阿彌陀佛と一聲となへはじめぬるが、一念をもかならずうまれしめんとちかひ給ふ。本願のなかにおさまりそむるより、十こゑになれば十念をもといふ願におさまり、一期申ぬれば一形をもといふ願におさまる也。 されば我らはしとげなくとなへゐたれども、佛は一こゑもきこしめしすごさず、みな若不生者不取正覺といふ本願のなかに、うけとり給て、佛力守護すれば、六塵のぬす人にもかすめられず、三毒の火にも、やかれずして、一念より一形にいたるまで、みな決定往生の業となる也。是名正定之業、順彼佛願故と釋する、この心なるべし。

こゑにつきて決定往生の思をなせといふげにもいはれたり。異香よりも紫雲よりも、南無阿彌陀佛ととなふるこゑにすぎたる往生のしるしやは侍るべき。かまへてただ、とかくのうら思なく、ま心に念佛して本願にあづけ、たてまつり給へ。いのちをはらん時、佛たしかに返したまはすべし。それをこそ最後の念佛にもし侍らんずれば、臨終の十念は、佛の御はからひにて相違あるべからず。かやうにうしろめたからぬ慈悲の父母にて、心やすくうしろみ給ふうへは、南無阿彌陀佛ととなへて、よろづは佛にまかせたてまつるべし。 さてこそ念佛のこゑをば、緑子の哭するこゑのごとしとも釋したれ。たとへばおさなき子のあしてもたたず、物もえいはぬは、うへたるにもさむきにもただ、母をかこちて、なくよりほかの事なし。母そのこゑをききぬれば、かならずゆきてたすく。うへたるらんとおもへばむねをひらきてちぶさをふくめ、さむかるらんと思へば、ふところにいれてはだへをあたたむ。さればうへをやすめ、さむさをやむるは、ひたすら母のちからにあり。わびてなくばかりこそ子のわざにては侍るやうに、我らが身の智慧の心もさかしからず、行のあしてもたたぬ事はおさなき子よりも、なををろかなれども、さすが、ありはてぬ世も、あぢきなく、ながきまよひも、かなしければ、たすけ給へと佛をかこちて、南無阿彌陀佛ととなふるほかは、はげみえたるかたなし。 佛このこゑをきこしめすに、一子の慈悲いかでか、やすき事をえん。されば穢土をいで淨土にうまれん事は、しかしながら佛の御ちから也。たすけ給へと思て名號を、となふるのみぞ、おのがはげむ所なる、化佛菩薩尋聲到。たのもしき慈悲の父母なれば、ただかまへておさなき子の、母をよばふおもひをなして、こゑにまかせて來迎をまつべし。あなかしこ。

こざかしき心あて往生をうたがふ事なかれ。又いかに妄念に申まじへたる念佛も、往生の定業となる也。そのゆへはもとより罪惡深重の機の、妄念とどまりがたかるべしとは、佛もおぼしめしまうけたるらん。そのうへにおこされたる本願なれば、にこれる念佛を、いなとにてはよも侍らじ。されば中路の白道も、なみをふみてあゆむべしとこそみえたれ。いはんや人ごとにその日の數返にとりむかふおりは、まづいかにも往生の思ひより、申そめらるる事なれば、念念の念佛はみな、もとの、やくそくにかへりて、はじめの心ざしにをさまりぬ。 又しどけなく、申ちらしたる念佛なれども、のちにかならず、とりあつめて、極樂に迴向する思あり。この時、妄念は、をのづからえらびすてられ、念佛はことごとくえらびとられて、けがるる所なく、みな清淨の業となる也。

さればかまへて口ばかりにもあれ、となへをくべき也。をはりに迴向せん時心ざしとひとつになるべきがゆへに、妄念とともにても申たらん念佛のつゐにいたづらなる事はゆめゆめ侍まじ。水火の二河をかへりみず、念念にわすれざれといふこの心なるべし。 又せめて千返萬返申つづけんに、妄念おこりて心やましくば、中中一念十念づつなりとも、つねにとなへてみ給へかし。餘念はよも侍らじ、たとへば河をわたる時は、水のたえまをまつ事なし、ただその、ながるるうへをふめば、あまさへ、あしのしたの水がせかるるやうに、われら貪嗔の河ふかくして、妄念のながれやむ事なけれども、南無阿彌陀佛と申せば、かへりてこゑのしたの妄念はをのづからやむ也。かやうに申つけぬる念佛は、妄念をこそさまたぐれ、妄念にさまたげらるる事はなきなり。わざとやめんとすれば、妄念いよいよたえず。をこらばをこれとうちすてて、妄念をかへりみず申すが手にて侍也。 さるを世のまぎれのひまなさに、念佛が申されぬなんどいふ人は、ただ往生の心ざしのなきゆへに、せめての事とこそおぼゆれ。かならずしも千遍萬遍申つづけたるのみやは、往生の業なるべき。一念十念づつなりとも、本願は、よもきらひ給はじ。ずずをとりたるがいみじきにしもあらじ。とてもかくても申こそ詮にて侍るべけれ。されば樂天のことばには、たちても阿彌陀、ゐても阿彌陀、たとひいそがはしき事、きるににたれども、一聲の阿彌陀はすたれずといへり。

すでに先賢の故實也。さらに後學の今案にあらず。すべからく一聲の阿彌陀をたもちて、よろしく九品の無生忍を證すべし。おほよそ稱佛一聲の風、すみやかに妄念の雲をはらふ。正座十劫の月をのづから信樂の露にうかぶ。けにたれか往生をとげさらんと、まめやかにたのもしくこそ覺れ。

又曇鸞の釋には、至極無生清淨寶珠の名號といへり。たとへば淨摩尼珠といふたまを、にごれる水に入れば、水たちまちにすむなるやうに、名號のたまを、くちのうちにふくみぬれば妄念のつみのにごりすみて、心の水きよくなりぬ。一念に八十億劫の生死のつみを滅すといへるも、かかるゆへなるべし。 さてさてかやうに一念も往生にふそくなき事をききて、かならずしも數返をはげまずともなんど、申すやからも侍るやらん。それは本願をあしく心得たる人也。法然上人の御すすめには、信を一念にとりて行を多念にはげめ、一念なを生ず、いはんや多念をやとの給へり。一念もうまるるとは、本願を信ずるやうをいふ。多念にはげめとは、起行をすすむる方を申也。一念も往生すと信ずるによりて、多念はげまざるは、信の行をさまたげたる也。多念はげめとすすむるによりて、一念をかろしむるは、行の信をさまたげたる也。 すべからく安心をば、かまへて、やはらかにとりて、起行をばいか程も、こはくはげむ、べきなり。一念功たへにして往生決定ならば、いよいよ多念をこそはげむべけれ。ただしはげめと、すすむるにつきて、いか程までといふきははあるべからず。ただ身のたへ心のをよばん程なるべし。その中に毎日百返が身にたへたるもあるべし。千返がこころのをよぶもあるべし。乃至三萬六萬も、機にしたがひてはげみえんまで也。 在家の人はまぎるるなかにはげみえん程、出家の人はのどかならんにつけちはげみえん程、又いたづらなるいとまに、をこたらじばやとはおもへども、などやらんわすられんは、ちからなき懈怠の機なれば、それもはげみて思ひいだされんほど也。

すべて人によりて事ことなるべし、さらにひとつらにはあるべからず。機にしたがひて行の多少はともかくもあれ、いづれもその心ざしの、いつはりなからんまでを身のぶんとすべじ。 おほかたは不簡行住坐臥、不論時所諸縁と侍れば、時をきらはず所をいはず縁によらず、ただたちゐおきふしにとなふべし。念佛に無禮といふ事はあるべからず。いか程も申ぞうやまふにて侍らん。さても、もとよりをこたりがちなりし身の、いとど老につかれ、やまふにくたびれて、しばしおきゐる事だにもかなはずなりぬ。まして威儀をうるはしくする事はまれなり、ただいつとなくおびとき、ひれふしながら猶さりともと出離を期する事は、淨土の一門ならで又いづれの教にかあるや。かかるに、つけてもすずろに本願がかたじけなくおぼえ、念佛がたうとく侍るぞとよ。さればとてあなかしこ。かなひぬべからん心を、ゆるしはすぐすべからず、いかにも、やすきに事をよするはかだましきがいたす所なりんかしと、をしはかりも、ようにくかりぬべくや


歸命本願抄下

修行者又問ていはく。本願のなかの機と心と行と別の子細なく我らがつたなき程にかなへりといふ事、あきらかに、うけ給はり、ひらきぬ。このぶんにて往生をとげん事は、若不生者不取正覺とちかひたまふ、佛の願力に乘ずるゆへ也と、のたまはせつる、いはれは、さからとおぼゆるやうなれども、なを、ひしとも心えとかれ侍らぬといへば、 老僧のいはく、人ごとにみなそのしきにて侍るぞとよ。凡夫の往生は本願に乘ずるゆへとまでは、たれたれもみみなれてぞ侍らんなれども、まさしく願に乘ずとはいかやうなるすぢといふ事を、おもひときたるはまれならんかし。よろづただ人の心のまことなきゆへに、しりがほにだにもなりぬればたりぬと思て、さしもとひきはめんとはせざんめるを、かくねんごろにたづね給ふこそ、げに往生の心ざしもおはするにこそとありがたく覺れ。

さればいかほともくはしくきこゆべし。まづ若不生者不取正覺とは、かかるつたなきものなりとも南無阿彌陀佛ととなへば、かならずわがくにに生ぜしめんとねがふ。この心ざしのちからむなしくして、もし、うるまじくは佛にならじと也。これにつきて、そのつたなきものなりとも、念佛せばかまへて生しめんとねがふを願とはいひ、生るまじくは佛になりじとちかごとし給を誓とは申也。 いまこの誓願は、彌陀如來いまだ佛になりたまはざりしいにしへ、法藏比丘と申ししとき、一切衆生を平等にあはれみ給ふ御慈悲のあまり、わがねがひのままに衆生往生すべくは、われも佛にならん。そのうまるる事かなふまじくは、ただもろともに、しづみこそせめ衆生をすてて我ひとり佛にならん事、さらにのぞむ所にあらず。 あやまて、衆生だにもたすかるべくは、假令身止諸苦毒中我行精進忍終不悔とまで、身にかへてかなしみおぼしめされし程に、さしも一大事の正覺をかけてちかひ給へる本願なり。

されば、念佛せんもの生ぜしめんといふ御ねがひ、かなふべくは、その御ちかごとにむくひてをのづから佛になりたまはんずらん。御ねがひむなしくして、我ら念佛すとも、うまるまじくは、又この御ちかごとにむくひて、よも佛にはなり給はじなれば、法藏比丘の成佛が我らが往生せんずるしるしにてはあるべき也。 これによりて善導大師は、若我成佛十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺、彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虚、衆生稱念必得往生と釋して、かの佛いま現に成佛し給ひぬ、まさにしるべし、うまるまじくは正覺とらじとたて給ひしちかごとのをもさにかへて、うまれしめんとおぼしめす御ねがひむなしからずして、われら稱念せばかならず往生すべしといふ事をとの給へり。 されば衆生の往生すべきによりて佛は正覺をとり、佛の正覺なり給によりて、衆生は往生をすべき也。このゆへに念佛申さんものの往生せんずる事は、はやすでに本願成就して正覺なり給し時より、ゆるぎなくさだまりてしかば、我らをみちびき給ふべき佛の御方便は、もとより、したためまうけられたるを、ただ衆生のかたよりあやぶみて、身を本願にまかせかねたる心のなまざかしさにこそ、けふまで往生もとどこほりぬれ。 いまよりにても心をかずたへみをかけば、やがて本願には乘ずべし。本願にだにも乘じなば、又いのちをはらん時かの國に生ぜん事、いささかもうたがひあるべからず。それにつきては、本願に乘じて往生すといふことはりをこそ、よくよく心えわくべけれ。

たとへば孟宗といひしもののおやは、たかんな(筍)をあいしけるなるべし。ある冬のころせちにこれをねがひげるに、時しも、あれ心づきなしとおぼえぬべけれども、孝養の心ざしねんごろなる子なりければ、雪いたくふりつみて、あるべうもなき竹のなかにむかひゐて、せめての事に、なきゐたるほどにとみれば、さるべきころよりも、なをあざやかなるたかうな(筍)、時のまにをひいでたりけむ。ふしぎなりける事ぞかし。 つらつらこの事をおもふにかぎりありて、をのれとをふべきころならば、夏のすゑざまをこそまつべけれ。これはしかしながら孟宗がねがふ心のせちなりしかば、そのねがひむなしからずしてかなひしゆへに、をふべくもなき時なれども、心ならずをひにける也。まめやかにねんごろなるねがひの、かなはぬ事は侍らぬにこそ、彌陀の本願もかくのごとし。我らがうまるべくもなき事は、雪のうちのたかんなの、をふべくもなきににたれども、深重の慈悲よりおこりて、ねんごろなりし本願なれば、念佛せんものかまへて、わが國にうまれしめんとねがはれし、その御ねがひむなしからずしてかなふゆへに、となふるものことごとくうまるる事は、孟宗がねがひのせちなりしによりて、たかんなのをひしがごとし、かかるを本願に乘じて往生すとはなづくる也。

されば佛の御ねがひのかなひぬるこそ、返返我らがよろこびにては侍れ。かの孟宗がねがひによりしたかんな、程よく片時に深雪をうがちてをひき。彌陀の本願たる念佛のいかでか一念に重垢をはらひてうまれざらん。我らが往生すべき支度をば、彌陀本願にかまへてたてられたり。南無阿彌陀佛と申さば、佛なにとも、はからひたまはんずらん。わがちからにてすまじき往生なれば、なにの心ぐるしきところかある。ただしたかんなをねがひし所にあらぬ草木はをひず、念佛をと、ちかふ佛なれば、稱名にあらずばうまれがたし。をのづからうまるる事をうれども、ももにひとつといへり。これにつけても、いよいよ一すぢに念佛して、佛の御ねがひ物になるべき也。

しかれば佛、すでに往生せんと思て、南無阿彌陀佛ととなへんものをとねがひ給ふ。我又往生せんと思ひて南無阿彌陀佛ととなふ。わが思ひ佛のねがひにいささかもたがはねど、すなはち佛の御ねがひ、もはら我身のうへにあたれり。もしうまれずばと侍れば、かならずうまれん事なにの 相違かあらん。ふかく決定の思をなすべし。ゆめゆめうたがふ心あるべからず。こまかにこのことはりをあんずれば、よろこびのなみだかへりてかなしむ。いたづらに無量無數劫の生死をへて、いままで常沒常流轉の凡夫たるだにもくやしきに、なを又有海の波浪にただよひて、こりずまに無窮に楚毒をのまん事は、あぢきなかるべき事なるを。いまこの本願にあひぬるのみこそ、まめやかに多生のおもひいでにて侍れ。 呑鉤の魚は水にある事ひさしからずといふ事あり。ふかくこれをよろこぶべし。たとへばうえたる魚のゑをもとむる。つりをえつればすなはちのみぬ。をのがいのちはあるにもあらず。いまはさだめてひさしからじ。わづかに水にある程、はかなくよろこぶけしきあれども、いまにくやしかるべきがごとく、われらひさしく流轉のなみにつかれて、出離のゑにうえたりし身の、たまたま名號のつりをえてのみぬ。苦海にあらん事いまいくばくぞや。わづかにいのちのつきざらん程、わすれずとなへんとするはくるしきににたれども、前念にいのちをはらば後念にすなはち往生せん。永劫の快樂こころよきにあらずや。物うきことをわすれてねんごろに念佛すべし。おほよそ本願はさをのごとし。名號はつりににたり。衆生の南無阿彌陀佛ととなふるは魚のゑをのみぬるにことならず。

さればすでに大悲の漁人、本願のさをよりたれたる。名號のつりをふくみて、生死の深淵をいでん事、さらさらうたがひあるべからず。さをにかけたるつりは、のむほどのうををえずといふことなし。本願にたれたる名號なれば、となへんほどのもののうまれぬはあるべからす。ゑをもとめて、つりをのむまでは、わづかに魚のわざなれども、つりをかまへて魚をうる事は、さながら人のちからにあり。 往生をねがひて名號をとなふるは、いささか衆生のわざなれども、本願をかまへて衆生をみちびくは、ことごとく佛のちからにあり。極惡の機の、たすけ給へと思て南無阿彌陀佛と申すは、機もつたなく、心もをろかに行もいやしけれども、これをわづかにゑをもとめつりをふくむほどのなかだちとして、若不生者不取正覺とちかひ給ふ本願にすがりなば、さだめて往生せん事を、魚のいのちをつりにまかせたるになずらへてみむ。かかるを他力に乘じて往生すとはならふ也。 さればこの名號のつりをのみぬるこそ、返返たのもしくおぼゆれ。極樂ならではいづくへかまかり侍らん。なにもげに期といふ事がありけるぞかし。このたびが生死のかぎりにて侍りけるよと、いひあへず、ことにばもなみだにとどこほれけしき。ことはらにいりたたぬ身なれどもたのもしくたうとくおぼゆ

修行者又いはく、このちかごろ、ここかしこ、まどひありきしほどに、げには事のはしばしはたずねふらふかたもこそ侍りしかども、おほくは經釋にもあはぬ義どもにて、いと心えぬ事のみ也。 されば安心もたちがたく、起行もすすましからざりつるに、しかるべう、こよひこまやかなる御をしへにあづかりて、往生のみちたどらず思さだめ侍りぬるは、さながら大聖の方便にこそと、よろこびのなみだことばにさきだつ。さても、いにしへの智者のをしへとかやきき侍りつるは、たれ人の事にかあらん。それまではいかでもありぬべけれども、又ながれをくみてみなもとをたづぬるならひは、ゆかしかるべき事にこそといへば、 老僧のいはく、とりわき一人につたへたる身にはあらず。法然上人の御弟子の中に、智者學生といはれし人人をば、もうさずこそとふらひ侍りしが、なかにもみみにとまりておぼゆるは、聖覺法印の法然上人の第三年の御佛事に、當伽藍にして道俗をあつめて、七日百萬返の念佛をすすめられし結願の説法に、三心の法門を申されて、をはりにもしこの法門、わが大師法然のおほせられしに、いささかもたがひ侍らば、當寺の本尊照罰し給へと、おなじことばに三度までちかごとをたてて、なをこれをふしんに思あはれば、筑紫の聖光房にとはるべしと申されしにこそ。さては聖 光ひじりは、證人になるほどのたしかなる智者にておはするにこそと、やむごとなくおぼえしかば、いかがしてかのひじりに、たいめんして、安心起行なんど、こまかにたづねうかがはましと思ひしかとも、こしたへぬ老のあゆみなれば、みちゆかぬあらましのみにて、やみにき、ほいなかりし事なれども、よしよしたとひ九州ほどとをくして談話を西海のなみにへだつとも、一生いくばくならざれば、向顏を寶池の月に期せんと、思ひなぐさみてすぎにしほどに、かのひじりのかかれたる、三心要集、修行門、なんどいふ物をみしかばのせらるる所の義、さらに聖覺のことばにたがはす。あまさへ、われいささかも上人の御義をあやまらばとて、さまざまの誓言をかきのせられたりしを、ひらき見てしのちこそ、遐方も終古も、げに面會のごとくに、よろこびもうらみもいまさらなりしか。 その書どもはいくらもよの中に侍るなんめり。たれだれもかまへてたづね見給へ。このひじりたちは、その身がらの人にすぎて、智者道心者にておはせしも、さる事にて、法然上人の御義を、たがへずとたて給ひしちかごとが、ことにたのもしくたうとくおぼゆる也。されば勢觀房の聖光ひじりへつかはされしせうそこ(消息)にも、當世京邊の念佛の義、みなもて濁亂、しかるに御邊一人、正義傳持候、ことに隨喜し入候とかかれたりき。

かの勢觀房はとしひさしく上人につかへたてまつりて法門の聽聞もみみふりたりしひじり也。その消息はまのあたり見侍りき。まさしき自筆の状にて侍りし也。又法蓮房正信房なんどにたづねうけ給はりしもみな相傳の正義とて申されしは、ことばもひとつに心もかはらざりき。そのほか京都にはやりたる義どもをは、さらに上人の御をしへにあらず。まめやかに頴川ちかくは、みみもあらひぬべしとぞ、この上足たちはかたられ侍りし。かやうにあるひはあまねくその人にむかひ、或はくはしくその書をひらきて、相傳の邪正をただしあきらめて、黒谷の正義をばききをきしかども、天性もとよりかたくななるに、老性いよいよをろそか也。才もなく智もなし、はぢつべしいたみつべし。かたはらいたく申さでぞあるべきをたづね給ふ心ざしのねんごろなれば、をのづから利益も侍らんに、わたくしありとおもひて、ききをきしはしばしをあらあらかたりきこゑぬる、をろかならんものはあざけりなん。法門のことはりをわきまへざるがゆへに、かしこからん人はかろしむべからず。智者のことばをつたへたるがゆへに、よくよくききとどめ給へ。ゆめゆめいるかせになしたまはせそ、かやうに申すはをこなる荒言なりや。されども法門にあやまりありなしは、法然上人のあそばしをかれたる物ども、世にかくれなく侍り。

又さきに申つるひじりたちのことばを、ききとどめたる人もここかしこにおほくのこりたれば、かれをひらきこれをとぶらはんにしられぬべし。としよりの、くりことし侍るほどに、夜もはやあけがたになりぬらん。身もひゑむねもわびしければ、さのみは申つくしがたし。この一夜の結縁をもて、かの九品の値遇をまたんといひすててたたれぬ。 この修行者さぞあやなくおもふらん。心の中にのこる事おほかるべし。なをもしたひていはんとにや、やがてつづきていでぬ。そのありさまゆかしくて、愚僧も又たちいでてみれば、あけがたのきりふかくして、ゆくゑむなしく見うしなひぬ。ねんなしとあきれゐたるほどに、夜もあけきりもはれにしかば、佛にいとま申てまかんで侍りにき。抑安心僻越しぬれば、萬行いたづらにほどこす。邪師邪教、をそれずばあるべからず。これによりて、としごろいかがして法然上人の正義をうけて、凡夫往生の徑路を、あきらめましと思侍しに、むなしくすぎし月日のかげ、かたぶきぬる身のよはひ、無常の獦者しきりにかりてもゆく。屠所のひつじ心ならずあゆみをいそぐ。たちかへるべきみちならねば、ゆくさきのみちかづくらん。一息かへらざればこれを後世に屬す。一念蹉跪せばすなはち輪迴に墮せん。いたづらにつちとなり煙とならんずる身をのみおもひて、かなしくこほりにむせび、ほのをにむせばんずるたましゐをかへり見ざるは、後のくゐさきにたたぬなげきもいまの事ぞかし。

後の世のさりともとおぼゆるたのみもなければ、命のをはりもすずろにおそろしかりしほどに、かぎりなく佛に、それへ申てししるしならむ。まのあたり明師のをしへをききて、はるかに上人の素意をしりぬるにこそ、臨終も心やすく、往生もうちかためておぼえぬれ。かの韋提希の世尊に崛せし時、釋梵そらに住して、二尊の教益を蒙りし、むかしの佛化になずらへて、この修行者の智識にあひし日、愚僧みぎりにのぞんで、一宗の祖訓をさとる。

いまの得益をおもふに、まことにこれ多生の大慶也。いかでか又小縁の宿因ならんや。ただしうらむるところは一旦にむなしくわかれて再會しばらく、へだたりぬる事を。ただみみにとどまることばのみぞ、いまは心にのこるかたみならん。さしもありがたきおもひいでの、跡なくわすれなんはほいなかるべければ、その一夜の閑談をあつめて、この三卷の記録とす。としてもかくしても、ただ身をまかせてたのめ、本願たすけ給ふべしとのみききしかば、歸命本願抄とやなづくべからむ


本文の出所は大正新脩大藏經テキストデータベースです