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「安心論題/タノム・タスケタマヘ」の版間の差分

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2009年12月28日 (月) 22:36時点における版

(10)タノム・タスケタマヘ


 蓮如上人の『御文章』には、「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」というお勧めが繰り返し示されています。これは浄土真宗のご安心をわかりやすく私どもにお示しくださったものであります。上人のこうしたご教化のお陰で、祖師聖人のみ教えが多くの人に伝わり、本願寺は飛躍的に興隆しました。今日、私どもが真宗のみのりにあうことができたのも、祖師聖人の立教開宗によることはいうまでもありませんが、別しては、蓮如上人ご一代のご勧化によるところが大きいということを忘れてはならないと思います。
 ところで、この「たすけたまえと弥陀をたのむ」ということを、「どうかお助けくださいと阿弥陀仏にお願いすることである」というように理解するならば、それは誤りであって、蓮如上人の意図に反し、祖師聖人の思召しに合わないことになります。それは前回の「帰命義趣」の論題でも述べましたように、願生帰命とか三業帰命といった自力の信心におちいってしまうからであります。
 蓮如上人が「たすけたまえと弥陀をたのめ」と仰せられたのは、どういう意味があるのか。その真意をうかがうのが、この「タノム・タスケタマヘ」という論題であります。


 まず「タノム」という語でありますが、これは辞典などによっても知られる通り、①たのみにする、信頼する、あてたよりにする、という意味と、②お願いする、請い求める、という意味と、両様の用例があります。
 今日でも、「杖とも柱ともたのむ一人息子に先立たれました」というような場合は、①たのみにするという意味の用例ですし、「うちの息子をどうかよろしくたのみます」というような場合は、②お願いするという意味の用例です。現在ではむしろ後者の「お願いする」という意味の用例の方が一般的かと思われます。
 ですから、私どもが『御文章』を拝読し、あるいは『お領解文』をとなえる場合にも。つい「たのむ」を「お願いする」という意味として受けとめる危険性がきわめて大きいといわねばなりません。
 しかしながら、蓮如上人の用語例をうかがいますと、「たのむ」は「たのみにする」という意味であって、決して「お願いする」という意味には用いられていないのであります。上人にあっては、「たのむ」と「ねがう」とは明確に区別して用いられています。
 「たのむ」は、いま現にあるもの(現前の境)について、これをたのみにし、あてたよりにし、あてたよりにするという場合に限って用いられ、「ねがう」は、まだ現にない将来のこと(未現前の境)について、これを願い求め、要望期待(要期)する場合に用いられるのです。一例をあげますと、『御文章』一帖目第十一通(真聖全三―四一八)に、

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。されば、死出の山路のすえ三塗の大河を:ば、ただひとりこそゆきなんずれ。これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり。またたのむべきは弥陀如来なり。

等と示されています。初めの方の文は、妻子や財宝をたのみにすることのむなしい旨を仰せられます。この「たのみおきつる」を、「かねてお願いしてあった妻子や財宝」というふうに理解することはできません。また後の方の文に、「ねがうべきは後生なり。またたのむべきは弥陀如来なり」と示されてあります。浄土に往生するのは将来うべき果ですから「ねがう」と仰せられ、阿弥陀如来の願力・勅命はいま現に与えられている法ですから「たのむ」(たのみにする)と仰せられるのです。
 したがって、蓮如上人が「弥陀をたのめ」と仰せられるのは、阿弥陀如来の願力をたのみにせよ、本願招喚の勅命に信順せよ、という意味であって、阿弥陀仏に向かって希願請求せよという意味では決してありません。
 『御文章』五帖目第六通(真聖全三―五〇三)には、

 一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、无上大利の功徳をあたえたもうこころを、『和讃』に聖人のいわく、
五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

等と仰せられています。『正像末和讃』の「選択本願信ずれば」(真聖全二―五一九)という祖師聖人のご文を、蓮如上人が「弥陀をたのみたてまつる」と解説されたのであります。


 「たのむ」という用語は、祖師聖人の上では、漢字の「帰」「信」の和訓として示され、また「憑」の字も「たのむ」と読みがなを付されています。
 まず「帰」の字については、『本典』行巻の六字釈に、帰命の「帰」について「帰悦也」と釈され、その左訓に「よりたのむなり」と示されます。(真聖全二―二二)。そのほか正信偈の偈前の釈には、「君后に帰して」の「帰」に「よりたのむ」の左訓を施され(真聖全二―四三)、真仏土巻では「帰依」の「帰」にも「たのむ」の左訓が施されています。(真聖全二―一二九)。
 和讃では、高田本の「讃阿弥陀仏偈和讃」の「大心力を帰命せよ」の「帰命」の左訓に「より、たのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり」と示され(親鸞聖人全集二〇頁)、「無称仏に帰命せよ」の「帰命」にも同様の左訓が示されています。
 「信」の字の意味を「たのむ」と示されたものは、『正像末和讃』の誡疑讃に、『大経』胎化段の疑惑仏智のことを(真聖全二―五二五)、

不思議の仏智をたのまねば、

と仰せられ、明信仏智の意を(同右)、

仏智の不思議をたのむべし。

と示されています。さらに『唯信鈔文意』には(真聖全二―六二一)、

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信という。

と解釈されてあります。これらはいずれも「信」の意味を「たのみ」と示された例であります。
 そのほか、「憑」の字で「たのむ」と読まれた例としては、『本典』行巻に「仰いでこれを憑むべし」(真聖全二―三三)、信巻には「大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば」等とあります(真聖全二―九七)。
 なお、祖師より以前の源信和尚や法然上人、また聖覚法印などのお聖教の上にも、「たのむ」という用語が見られますが、それらもすべて「たのみにする」という意味に用いられているのであって、「お願いする、請い求める」という意味の用例は見当たりません。聖覚法印の『唯信鈔』には、 極楽をねがうこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめて(真聖全二―七四三)、

信心というは、ふかく人のことばをたのみて、うたがわざるなり(真聖全二―七四八)。

とあります。
 以上、「たのむ」という用語については、蓮如上人はもとより、祖師聖人の上でも、さらにそれは以前の真宗相承の上でも、すべて「たのみにする、信頼する」という意味に用いられているので、「お願いする、請い求める」という意味でないことが知られます。


 「たすけたまえ」というのは、どのようにたのみにするのか、「たのむ」の内容を示されたものであります。『蓮如上人御一代記聞書』に(真聖全三―五七七)、

聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり。故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、くわしく何とたのめということをしらざりき。:然れば前々住上人(蓮如)の御代に『御文』を御作り候いて、「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」とあきらかにしらせら れ候。:然れば御再興の上人にてましますものなり。

と述べられています。
 「タスケタマヘ」という言葉は、「タスク」という動詞の連用形「タスケ」に、尊敬の意をあらわす補助動詞「タマフ」の命令形「タマヘ」がついた形で、「おたすけくだされよ」という意味でありましょう。
 にもかかわらず、今いう「たすけたまえ」は希願請求の意味ではなくて、許諾の義であるといわれます。許諾の義というのは、先方の言い分を許し承諾する意味であります。二河白道の譬によれば、阿弥陀如来は(真聖全二―五六引用)、

一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。
(たのみにせよ、必ずたすけるぞよ。)

と、私によびかけていてくださいます。この本願招喚の勅命を聞いて、仰せの通りに受けいれた心相をあらわすのが、「たすけたまえと弥陀をたのむ」ということであります。
 たとえば、海外へ行きたい、どうでも行かせてほしいという相手に対して、「行きなさい」と応答するのは、相手の言い分をききいれて承諾したのであって、決して相手に向かって「行ってほしい」と願い求める意味でないのと同様でありましょう。
 さらにまた、この「たすけたまえ」は「弥陀をたのむ」の内容を示すものであるという視点から考えましても、希願請求の意味と理解することは誤りであることが知られます。
 なぜなれば、「たのむ」については、既にうかがった通り、お聖教に示されている用例はすべて、「たのみにする、信頼する、あてたよりにする」という意味で用いられているからであります。前掲の「帰命」の左訓に、

より、たのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり。

と宗祖は明示されています。蓮師の上でも、「たのむ」と「ねがう」とは明らかに区別して用いられています。もし、どうか助けくださいと願うのであれば、「たすけたまえと弥陀にねがえ」といういい方になりましょう。そうではなくて、手強い如来の先手のよび声を受けいれ、これにうち任せる心相を「たすけたまえと弥陀をたのむ」と仰せられるのであります。


 本願寺第十九代の本如宗主は、三業惑乱の誤りをただし、正意の安心を顕すために、いわゆる『御裁断の御書』を示され(真聖全五―七六八)、

弥陀をたのむというは、他力の信心を安く知らしめたもう教示なるが故に、たすけたまえというは、ただこれ大悲の勅命に信順する心なり。

等と仰せられているのは、このような意味を明らかにされたものであります。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p116~