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 [[顕智]]上人書写本ではこの前に「獲の字は<ruby><rb>因位</rb><rp>(</rp><rt>いんに</rt><rp>)</rp></ruby>のときうるを獲といふ。得の字は[[果位]]のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]],[[消息上#P--768|消息 P.768]])
 
 [[顕智]]上人書写本ではこの前に「獲の字は<ruby><rb>因位</rb><rp>(</rp><rt>いんに</rt><rp>)</rp></ruby>のときうるを獲といふ。得の字は[[果位]]のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]],[[消息上#P--768|消息 P.768]])
 
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 人為的なものに対して、人為をからず、おのずからそうなっていること。親鸞聖人は、「おのづからしからしむ」と読み、人間のはからいを超えた如来のはからいによる救いをあらわす語とされた。意味上三種に分類される。
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1.業道(ごうどう)自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。
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 人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「自ずから然り」と読む。<br>
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親鸞聖人は、「自ずから然らしむ」と読み、人間のはからいを超えた阿弥陀仏のはからいによる救いをあらわす語とされた。一般的には次の三種に分類される。
  
2.願力(がんりき)自然。他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、救いをたのむ行者は、何のはからいをも用いないで本願力によっておのずから浄土に往生せしめられることをいう。
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:1.業道(ごうどう)自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。「自ずから然り」という意にあたる。『大経』「五善五悪」(五悪段)の用例の多くはこの意であるが、親鸞聖人は「自然」の語をこの意で用いることはない。
  
3.無為(むい)自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。 ([[正像末和讃#P--622|正像 P.622]]) 
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:2.願力(がんりき)自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、願力にまかせる行者は、何のはからいをもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられることをいう。
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:3.無為(むい)自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。 親鸞聖人は3の場合も「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。 ([[正像末和讃#P--622|正像 P.622]]) 
 
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2013年9月1日 (日) 15:54時点における版

じねん

 顕智上人書写本ではこの前に「獲の字は因位(いんに)のときうるを獲といふ。得の字は果位のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。(正像 P.621,消息 P.768)



 人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「自ずから然り」と読む。
親鸞聖人は、「自ずから然らしむ」と読み、人間のはからいを超えた阿弥陀仏のはからいによる救いをあらわす語とされた。一般的には次の三種に分類される。

1.業道(ごうどう)自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。「自ずから然り」という意にあたる。『大経』「五善五悪」(五悪段)の用例の多くはこの意であるが、親鸞聖人は「自然」の語をこの意で用いることはない。
2.願力(がんりき)自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、願力にまかせる行者は、何のはからいをもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられることをいう。
3.無為(むい)自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。 親鸞聖人は3の場合も「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。 (正像 P.622) 
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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