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「和光同塵」の版間の差分

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 仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を済度のためにその威光を和らげて神となり、この世界の煩悩の塵に応同して衆に縁を結ぶこと。『止観』のことばによる。  ([[持名鈔#P--1010|持名鈔 P.1010]])
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 仏・<kana>菩薩(ぼ さつ)</kana>が<kana>衆生(しゅじょう)</kana>を済度のためにその威光を和らげて神となり、この世界の煩悩の塵に応同して衆に縁を結ぶこと。『止観』のことばによる。  ([[持名鈔#P--1010|持名鈔 P.1010]],[[御文三#P--1152|御文章 P.1152]])
  
 
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2008年1月23日 (水) 14:01時点における版

わこうどうじん

 和光同塵 「光を(やわ)らげて塵に同ず」と読む。『老子(ろう し)』に「その鋭を挫き、その粉を解き、その光を和らげて、その塵に同ず」とある文から出た語。自己の才能をかくして、塵の世に交わり入るという意味である。

 仏教ではこの語を転用して、仏・菩薩(ぼ さつ)衆生(しゅじょう)を救うために、光輝くような本来の姿をかくし、さまざまな姿をかくし、さまざまな姿を示して、煩悩(ぼんのう)の衆生に応同していくことをいう。『摩訶止観(ま か しかん)』(六・下)にある「和光同塵は結縁(けちえん)の始め、八相成道(じょうどう)はもつてその終わりを論ず」という文は、この語の用例として有名である。わが国においては、仏本神迹の本地垂迹(ほんじすいしゃく)説に応用し、仏・菩薩がわが国の民衆に仏縁を結ぶために、さまざまな神祇(じんぎ)となってあらわれているのであるから、諸神の本意は衆生を仏道に引き入れるためであると説くのに用いることが多かった。


 仏・菩薩(ぼ さつ)衆生(しゅじょう)を済度のためにその威光を和らげて神となり、この世界の煩悩の塵に応同して衆に縁を結ぶこと。『止観』のことばによる。  (持名鈔 P.1010,御文章 P.1152)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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