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しょうしんぼう
 
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  底本には「聖信房」とある。正信房<kana>湛空(たんくう)</kana>(1176-1253)のこと。はじめ比叡山の<kana>実全(じつぜん)</kana>に師事したが、後に[[法然]]上人に帰し、京都<kana>嵯峨(さ が)</kana>の二尊院に住して念仏を広めた。その門流を嵯峨門徒という。 ([[御伝鈔#P--1050|御伝鈔 P.1050]])
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 底本には「聖信房」とある。正信房<kana>湛空(たんくう)</kana>(1176-1253)のこと。はじめ比叡山の<kana>実全(じつぜん)</kana>に師事したが、後に[[法然]]上人に帰し、京都<kana>嵯峨(さ が)</kana>の二尊院に住して念仏を広めた。その門流を嵯峨門徒という。 ([[御伝鈔#P--1050|御伝鈔 P.1050]])
  
 
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この逸話の元となったとされる『歎異抄』後序には、正信房の名はない。覚如上人は当時の浄土門異流との差別化の為に筆が走り過ぎるところがあるので、留意して読む必要がある。

2011年8月7日 (日) 21:28時点における版

しょうしんぼう

 底本には「聖信房」とある。正信房湛空(たんくう)(1176-1253)のこと。はじめ比叡山の実全(じつぜん)に師事したが、後に法然上人に帰し、京都嵯峨(さ が)の二尊院に住して念仏を広めた。その門流を嵯峨門徒という。 (御伝鈔 P.1050

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

この逸話の元となったとされる『歎異抄』後序には、正信房の名はない。覚如上人は当時の浄土門異流との差別化の為に筆が走り過ぎるところがあるので、留意して読む必要がある。