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:①<kana>衆生縁(しゅじょうえん)</kana>。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
 
:①<kana>衆生縁(しゅじょうえん)</kana>。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
 
:②<kana>法縁(ほうえん)</kana>。衆生の実体はないが、個体を構成する[[五蘊]](ごうん)の法体は実有であるとする[[小乗]]の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
 
:②<kana>法縁(ほうえん)</kana>。衆生の実体はないが、個体を構成する[[五蘊]](ごうん)の法体は実有であるとする[[小乗]]の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
:③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の[[菩薩]]や仏のおこされる大悲をいう。
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:③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の[[菩薩]]や仏のおこされる大悲をいう。 ([[持名鈔#P--1015|持名鈔 P.1015]])
  
 
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2008年1月11日 (金) 07:31時点における版

さんえん

Ⅰ 阿弥陀仏が念仏の衆生を摂取(せっしゅ)する三種の深いかかわりのこと。(安心決定P.1398)

親縁(しんえん)。衆生が口で仏名(ぶつみょう)(とな)え、身で仏を礼拝(らいはい)し、(こころ)で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに憶念(おくねん)し合うという密接不離の関係にあること。
近縁(ごんえん)。衆生が仏を見たいと願えば目前にあらわれるという関係にあること。
増上縁(ぞうじょうえん)。衆生が名号(みょうごう)を称えれば多劫(たこう)の罪を除き、命の終るときに仏は聖衆(しょうじゅ)とともに来迎(らいこう)して、罪業(ざいごう)の繋縛(けばく)に障碍(しょうげ)されず往生させること。

Ⅱ 三種の慈悲のこと。

衆生縁(しゅじょうえん)。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
法縁(ほうえん)。衆生の実体はないが、個体を構成する五蘊(ごうん)の法体は実有であるとする小乗の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の菩薩や仏のおこされる大悲をいう。 (持名鈔 P.1015)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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