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 『教行証文類』の「真仏土文類」には、親鸞聖人独自の[[大涅槃|大涅槃界]]としての仏身仏土論が展開されている。<br />
 
 『教行証文類』の「真仏土文類」には、親鸞聖人独自の[[大涅槃|大涅槃界]]としての仏身仏土論が展開されている。<br />
 
そのことは「証文類」で、[[報土]]に往生することは[[成仏]]することであり、[[阿弥陀仏]]もそこから[[顕現]]してこられた[[一如]]に証入することであるという[[難思議往生]]を開顕されていたことから十分予測されたことであった。[[往生即成仏]]ということが、破天荒な論義であるならば、その仏身仏土論もまた従来の浄土教の常識を超えるものであったことは当然である。<br />
 
そのことは「証文類」で、[[報土]]に往生することは[[成仏]]することであり、[[阿弥陀仏]]もそこから[[顕現]]してこられた[[一如]]に証入することであるという[[難思議往生]]を開顕されていたことから十分予測されたことであった。[[往生即成仏]]ということが、破天荒な論義であるならば、その仏身仏土論もまた従来の浄土教の常識を超えるものであったことは当然である。<br />
 ところで『教行証文類』に「真仏土文類」が顕されたことについて、古来二つの理由が挙げられている。<br />
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 ところで『[[教行証文類]]』に「真仏土文類」が顕されたことについて、古来二つの理由が挙げられている。<br />
第一には真実の証果を開く場所を明らかにするためであり、第二には往還二種の回向の本源を顕すためであるというのである。第一は、「証文類」に続いて「真仏土文類」が置かれていることの意味を示すもので、[[浄土門]]の証果は、[[聖道門]]のように此土において開覚するものではなくて、真仏土において開ける証果であることを明らかにするためであった。「真仏土文類」に引文を結んで、
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第一には真実の証果を開く場所を明らかにするためであり、第二には往還[[二種の回向]]の本源を顕すためであるというのである。第一は、「証文類」に続いて「真仏土文類」が置かれていることの意味を示すもので、[[浄土門]]の証果は、[[聖道門]]のように此土において開覚するものではなくて、真仏土において開ける証果であることを明らかにするためであった。「真仏土文類」に引文を結んで、
:しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。······ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。([[真巻#no37|『註釈版聖典』三七〇―三七一頁]])
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:しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。······ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず[[仏性]]を顕す。[[本願力の回向]]によるがゆゑに。([[真巻#no37|『註釈版聖典』三七〇―三七一頁]])
 
といい、[[仏性]]を開覚するのは真仏土においてであることを強調されたものがそれである。その意味で真仏土は衆生往生の因果の究極するところを表していた。このように教・行・信・証・真仏真土という順序で法義を顕していくことを'''往生浄土門'''([[往生門]])の法義という。<br />
 
といい、[[仏性]]を開覚するのは真仏土においてであることを強調されたものがそれである。その意味で真仏土は衆生往生の因果の究極するところを表していた。このように教・行・信・証・真仏真土という順序で法義を顕していくことを'''往生浄土門'''([[往生門]])の法義という。<br />
 第二は、大涅槃の領域である真仏・真土を本源として、二回向四法<ref>二回向四法(にえこう-しほう)。往相と還相の二廻向と教・行・信・証の四法。</ref>が展開していくことを明らかにする立場である。往相・還相の二種の回向は、悲智円満の[[正覚]]の全体が衆生救済の妙用を現しているすがたであって、二回向四法となってはたらかないような如来・浄土は存在しない。[[往相]]・[[還相]]の二種を衆生に[[回向]]して、一切の衆生を往生成仏せしめ[[還相]]せしめているのが本願成就の真仏土であるということを表すために「真仏土文類」が明かされていると見る立場である。『正像末和讃』に、
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 第二は、[[大涅槃]]の領域である真仏・真土を本源として、二回向四法<ref>二回向四法(にえこう-しほう)。往相と還相の二廻向と教・行・信・証の四法。</ref>が展開していくことを明らかにする立場である。往相・還相の二種の回向は、[[悲智]]円満の[[正覚]]の全体が衆生救済の妙用を現しているすがたであって、[[二回向四法]]となってはたらかないような如来・浄土は存在しない。[[往相]]・[[還相]]の二種を衆生に[[回向]]して、一切の衆生を[[往生成仏]]せしめ[[還相]]せしめているのが本願成就の真仏土であるということを表すために「真仏土文類」が明かされていると見る立場である。『正像末和讃』に、
 
:超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
 
:超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
 
:光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり ([[正像末和讃#no19|『同前』六〇三頁]])
 
:光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり ([[正像末和讃#no19|『同前』六〇三頁]])
と讃仰し、光寿無量の真仏・真土こそ大悲救済の本源であるといい、浄土真宗という法義の本源であるといわれたものがその意を表していた。このように[[無明]][[煩悩]]の[[寂滅]]した浄土を法門の根源として、そこから往生の因果が回向成就されると見る立場を'''正覚摂化門'''([[正覚門]])の法義と呼んでいる。<br />
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と讃仰し、光寿無量の真仏・真土こそ[[大悲]]救済の本源であるといい、浄土真宗という法義の本源であるといわれたものがその意を表していた。このように[[無明]][[煩悩]]の[[寂滅]]した浄土を法門の根源として、そこから往生の因果が回向成就されると見る立場を'''正覚摂化門'''([[正覚門]])の法義と呼んでいる。<br />
 往生浄土門は、衆生を中心にして因から果に向かうかたちで法門が語られるから、特に往生の因の真と仮と偽を明らかに分別し[[廃立]]する法義の表し方である。それに対して正覚摂化門は、如来・浄土を中心にして、その[[必然]](自然)として南無阿弥陀仏となって衆生に近づき、さまざまな方便を設けて衆生を調熟<ref>調熟(ちょうじゅく)。本願を受け容れられるように機を調(ととの)え成熟させること。</ref>し、本願を信ぜしめ念仏せしめて、涅槃の浄土へ迎え入れ、成仏せしめ、[[還相]]せしめていくという限りない[[大涅槃]]の活動を表す法門である。それは仏から衆生へという方向を強調し、浄土真宗とは如来・浄土の活動であるような法門であることを明らかにする法義であった。このように法門の淵源として涅槃の浄土を見ていくところに聖人の浄土教義の特色があった。ともあれ聖人の教義は、この[[正覚門]]と[[往生門]]という二種の法門が絡み合いながら展開しているのであった。
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 [[往生浄土門]]は、衆生を中心にして因から果に向かうかたちで法門が語られるから、特に往生の因の真と仮と偽を明らかに分別し[[廃立]]する法義の表し方である。それに対して[[正覚摂化門]]は、如来・浄土を中心にして、その[[必然]](自然)として南無阿弥陀仏となって衆生に近づき、さまざまな方便を設けて衆生を調熟<ref>調熟(ちょうじゅく)。本願を受け容れられるように機を調(ととの)え成熟させること。</ref>し、本願を信ぜしめ念仏せしめて、[[涅槃]]の浄土へ迎え入れ、成仏せしめ、[[還相]]せしめていくという限りない[[大涅槃]]の活動を表す法門である。それは仏から衆生へという方向を強調し、浄土真宗とは如来・浄土の活動であるような法門であることを明らかにする法義であった。このように法門の淵源として涅槃の浄土を見ていくところに聖人の浄土教義の特色があった。ともあれ聖人の教義は、この[[正覚門]]と[[往生門]]という二種の法門が絡み合いながら展開しているのであった。
 
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2024年9月27日 (金) 10:59時点における最新版

『教行証文類』には、教・行・信・証の四法と真仏土が顕されている。この真仏土が顕されいる理由を梯實圓和上の『親鸞教学の特色と展開』から窺ってみる。御開山が真仏土を顕された意図を往生門正覚門といふ面から考える示唆となるであろう。

涅槃の浄土

  ──真仏・真土の開顕──

 『教行証文類』の「真仏土文類」には、親鸞聖人独自の大涅槃界としての仏身仏土論が展開されている。
そのことは「証文類」で、報土に往生することは成仏することであり、阿弥陀仏もそこから顕現してこられた一如に証入することであるという難思議往生を開顕されていたことから十分予測されたことであった。往生即成仏ということが、破天荒な論義であるならば、その仏身仏土論もまた従来の浄土教の常識を超えるものであったことは当然である。
 ところで『教行証文類』に「真仏土文類」が顕されたことについて、古来二つの理由が挙げられている。
第一には真実の証果を開く場所を明らかにするためであり、第二には往還二種の回向の本源を顕すためであるというのである。第一は、「証文類」に続いて「真仏土文類」が置かれていることの意味を示すもので、浄土門の証果は、聖道門のように此土において開覚するものではなくて、真仏土において開ける証果であることを明らかにするためであった。「真仏土文類」に引文を結んで、

しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。······ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。(『註釈版聖典』三七〇―三七一頁)

といい、仏性を開覚するのは真仏土においてであることを強調されたものがそれである。その意味で真仏土は衆生往生の因果の究極するところを表していた。このように教・行・信・証・真仏真土という順序で法義を顕していくことを往生浄土門(往生門)の法義という。
 第二は、大涅槃の領域である真仏・真土を本源として、二回向四法[1]が展開していくことを明らかにする立場である。往相・還相の二種の回向は、悲智円満の正覚の全体が衆生救済の妙用を現しているすがたであって、二回向四法となってはたらかないような如来・浄土は存在しない。往相還相の二種を衆生に回向して、一切の衆生を往生成仏せしめ還相せしめているのが本願成就の真仏土であるということを表すために「真仏土文類」が明かされていると見る立場である。『正像末和讃』に、

超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり (『同前』六〇三頁)

と讃仰し、光寿無量の真仏・真土こそ大悲救済の本源であるといい、浄土真宗という法義の本源であるといわれたものがその意を表していた。このように無明煩悩寂滅した浄土を法門の根源として、そこから往生の因果が回向成就されると見る立場を正覚摂化門(正覚門)の法義と呼んでいる。
 往生浄土門は、衆生を中心にして因から果に向かうかたちで法門が語られるから、特に往生の因の真と仮と偽を明らかに分別し廃立する法義の表し方である。それに対して正覚摂化門は、如来・浄土を中心にして、その必然(自然)として南無阿弥陀仏となって衆生に近づき、さまざまな方便を設けて衆生を調熟[2]し、本願を信ぜしめ念仏せしめて、涅槃の浄土へ迎え入れ、成仏せしめ、還相せしめていくという限りない大涅槃の活動を表す法門である。それは仏から衆生へという方向を強調し、浄土真宗とは如来・浄土の活動であるような法門であることを明らかにする法義であった。このように法門の淵源として涅槃の浄土を見ていくところに聖人の浄土教義の特色があった。ともあれ聖人の教義は、この正覚門往生門という二種の法門が絡み合いながら展開しているのであった。

  1. 二回向四法(にえこう-しほう)。往相と還相の二廻向と教・行・信・証の四法。
  2. 調熟(ちょうじゅく)。本願を受け容れられるように機を調(ととの)え成熟させること。